八丁堀与力同心組屋敷跡 すずらん通りの京華スクエア
八丁堀の与力・同心組屋敷跡
所在地 中央区八丁堀ほか
江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永12年(1635)に江戸城化の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心組屋敷の町が成立しました。その範囲は茅場町から八丁堀一帯に集中しています。
八丁堀と言えば捕り物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた、江戸町奉行配下の与力・同心の町でした。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。着流に羽織姿で懐手、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていました。
初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力10人、同心50人から始まってのち、南北両町奉行が成立すると与力50人、同心280人と増加し、両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行200石、屋敷は300~500坪、同心は30俵二人扶持で、100坪ほどの屋敷地でした。
これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍したのですが、生活費を得るため町民に屋敷地を貸すものも多く、与力で歌人の加藤枝直・千陰父子や医者で歌人の井上文雄だどの文化人や学書を輩出した町としても知られています。
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