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2024-11-02

大内小学校の碑 (現 京都市立梅小路小学校)

 大内小学校の碑 (現 京都市立梅小路小学校)





大内小学校の碑

沿革史

大内小学校は明治五年東寺境内に東寺廻り村小学校として創設され、以後八条小学校、脩道小学校と校名を改称。明治十九年現在地に移転し、大正二年 更に校名を大内尋常小学校と改称した。開校以来百二十四年の歩みの中に一万三千余名の卒業生を世に送り出した。

平成七年二月 校区の人々の賛同を得て安寧小学校との統合を決定し、新しい統合校 梅小路小学校に後を託して、平成八年三月その輝かしい歴史の幕を閉じた。

校歌

一 
春うららなる 大内の庭に
萌ゆる若草 しげくたくまし
つつむ力に 百千の花と
咲きて競わん 美しの色


照らす光と 教えのつゆに
若草しげりて 瑞枝は伸びぬ
いでや励みて 学びの庭に
良き実結ばん 望みの秋を




2024-10-30

はなし塚

はなし塚
台東区寿二丁目九番七号 本法寺





本法寺

 はなし塚

台東区寿二丁目九番七号 本法寺

 この塚が建立された昭和十六年十月、当時国は太平洋戦 争へと向かう戦時下にあり、各種芸能団体は、演題種目に ついて自粛を強いられていた。落語界では、演題を甲乙丙 丁の四種に分類し、丁種には時局にあわないものとして花柳界、酒、妾に関する噺、廓噺等五十三種を選び、禁演落語 として発表、自粛の姿勢を示した。この中には江戸文芸の名作といわれた『明烏』『五人廻し』『木乃伊取』等を含み、高座から聴けなくなった。

 「はなし塚」は、これら名作と落語界先輩の霊を弔うた め、当時の講談落語協会、小咄を作る会、落語講談家一同、 落語定席席主が建立したもので、塚には禁演となった落語 の台本等が納められた。

 戦後の昭和二十一年九月、塚の前で禁演落語復活祭が行われ、それまで納められていたものに替えて、戦時中の台本などが納められた。

平成十六年三月

台東区教育委員会

2024-10-29

函館市青函連絡船記念館摩周丸

 函館市青函連絡船記念館摩周丸

北海道と本州を隔てる津軽海峡にはかつて、青函連絡船が航行していました。(以下は函館市観光サイトへ)





津軽丸 大錨(左)  D51種動輪(中央)  大雪丸 大錨(右)



2024-10-28

明治天皇聖蹟碑

 明治天皇聖蹟碑



明治天皇聖蹟碑

 この碑は、明治14年(1881年)9月1日に明治天皇が札幌農学校(現時計台)を行幸されたことを記念 し、昭和9年(1934年)9月1日に建立されたものです。当時は、時計台正門南側(現在の『写真撮影スポッ ト』付近)に配置されていました。

 昭和20年(1945年)の終戦直後、連合軍の進駐を前に撤去され、戦後の混乱を経てその所在は永らく不明でしたが、昭和末期に中島公園管理事務所で保管されているのが発見され、その後は西区の「手稲記念館」で保管されていました。

 時計台の歴史を理解する貴重な資料として、明治天皇行幸140年目となる令和3年(2021年)に再建立す ることとなり、76年の時を経て、元の場所である時計台に復元しました。

 碑の正面「明治天皇聖蹟」の揮毫は東郷平八郎、裏面の「旧札幌農学校演武場」及び側面の「明治天皇行幸明 治十四年九月一日」の揮毫は、元北海道帝国大学総長 佐藤昌介によるものとされています。

参考文献:札幌市教育委員会編『さっぽろ文庫6 時計台』(昭和53年10月発行)

札幌市


 Emperor Meiji Sacred Site Monument This monument was erected on September 1, 1934 (Showa 9) to commemorate the Emperor Meiji's visit to Sapporo Agricultural School (now the Clock Tower) on September 1, 1881 (Meiji 14). At that time, it was placed on the south side of the main gate of the Clock Tower (near the current "photo spot"). 

 Immediately after the end of the war in 1945 (Showa 20), it was removed before the Allied forces moved in, and its whereabouts after that were unknown due to the confusion of the war. In the late Showa period, it was found stored at the Nakajima Park management office, and then kept at the "Teine Memorial Museum" in the Nishi Ward. As a valuable resource for understanding the history of the Clock Tower, it was decided to re-erect the monument in 2021 (Reiwa 3), the 140th anniversary of the Emperor Meiji's visit, and after 76 years, it was restored to its original location by the Clock Tower. The front of the monument, "Sacred Site of Emperor Meiji" was written by Heihachiro Togo, while the back of the monument, "Former Sapporo Agricultural School Demonstration Hall" and the side of the monument, "Emperor Meiji's Visit on September 1, Meiji 14" were written by Shosuke Sato, former president of Hokkaido Imperial University.

Reference: Sapporo City Board of Education, "Sapporo Bunko (book collection) 6: Clock Tower" (Oct. 1978 (Showa 53)).

札幌開拓の先駆者大友亀太郎

 札幌開拓の先駆者大友亀太郎




 札幌開拓の先駆者大友亀太郎は、 天保五年(一八三四)に現在の神奈川 県小田原市で生れた。二宮尊徳の門に学び「人の一生は金銀財宝に富めるにあらず。積善の道に如かず」を信念とした安政五年(一八五六)に渡道し、慶応二年(一八六六)には箱館奉行に蝦夷地開墾の計画書を提出するとともに 石狩地方開拓の命を受け、札幌市東区(旧・元村)に土地を選んで開墾し、札幌の街づくりの発端となった。明治二年(一八六九) これを開拓使に引き継き、翌三年 札幌を去った、亀太郎が掘った大友堀は、今日の創成川の基となって街の中心部を流れ続けている

昭和62年5月

制作者 農民彫刻家 松田与一

題字  札幌市長 板垣武四   

大友栄太郎像建立実行委員会   
    委員長 清水利信  
【財団法人北海道報徳社社長理事】

北海道第一歩の地碑

北海道第一歩の地




北海道第一歩の地

 明治維新後函館は 名実共に北海道の門戸となった。そして北海道の地を踏む者がその第一歩を印したのはこの東浜桟橋である。

 後に若松町に鉄道桟橋 ができてからは旧桟橋と も呼ばれた。国道四号線 が認定されるや 北海道 の道路の基点として ここに道路元標が 建てられた。

 明治百年を迎えるに当たり 此地に記念碑をたてて 開拓に渡道した先人の足跡をしのぶ。

昭和四十三年十一月三日

寄贈 日本中央競馬会
碑文 阿部龍夫
設計 明石信道
彫刻 根本土龍
施工 大成建設式会社


 北海道第一歩の地碑

 明治維新後、函館は名実ともに北海道の門戸となり、この北海道の地を踏むものがその第一歩を印 したのが東浜桟橋(旧桟橋)である。

 青函航路は、明治6年(1873年)に開拓使の弘明丸によって一般輸送を開始し、明治12年(1879年)に三菱会社が開拓使から青函航路を譲り受け、以後、日本郵船鉄道会社などによって継続されてきたが、明治41年(1908年)に国有鉄道の航路として比羅夫丸、田村丸が就航した。

 当時、連絡船は沖に停泊し、客は艀舟でこの桟橋との間を行き来した。この東浜桟橋は、明治4年 (1871年)に作られた。

 連絡船の桟橋は、明治43年(1910年)2月に若松ふ頭に新設移転したが、その後もこの桟橋は活用 され、北洋漁業の拠点などとしても重要な役割を果たしてきたが、とくに戦前の北洋漁業の発着時には、 大変な賑わいをみせていた。平成30年度から架け替え工事を実施。

 この記念碑は、熊にいかりを配し、開道100年を記念して開拓に渡道した先人の足跡をしのぶと共に、 北海道発展の未来を志向して、昭和43年(1968年)9月に建立されたものである。

函館市


Modern Gateway to Hokkaido

 After the Meiji Restoration in 1868, Hakodate became the main entry point to Hokkaido; in fact people arriving on the island took their first steps here at Higashihama Pier.

 In 1873 the ship Komei-maru commenced the first regular transport service between Aomori and Hakodate. In 1879 the Mitsubishi company took over the operation and continued it under subsidiaries such as the Japan Postal Shipping and Rail Company. 

 In 1908 the Hirafu-maru and Tamura-maru entered service on the Aomori-Hakodate run as part of the Japanese

 National Railways network. In the time before the harbour was dredged, ferries anchored off the port and passengers were transferred to and fro by lighters. This pier was built in 1871.

 After ferries began using Wakamatsu wharf in February 1910, this pier came to play an important role as a base for the northern sea fishery, and was particularly busy servicing arriving and departing ships during the time before World War II. 

 This monument, with its bear and anchor, was built in September 1968 to commemorate the centenary of the arrival of people who came to develop Hokkaido, and also for its future development.

CITY OF HAKODATE


https://photos.app.goo.gl/R7svE2YtRpPdnDqV9



2024-10-27

ペリー提督 函館来航関係碑

函館 ペリー提督来航記念碑



ペリー提督来航記念碑

 日本と和親条約を締結したアメリカ海軍提督M.C.ペリーは、1854年(安政元年)5月17日、開港される箱館港を下検分するため、5隻の艦船を率いて来航した。
 滞在中には、箱館湾の海図を作成したほか、銀板写真術(ダゲレオタイプ)の初公開、西洋音楽の吹奏などを行い、当時の人々の驚きの様子が記録として残っている。
 このペリー来航が契機となり、蝦夷地(北海道)を統治する箱館奉行所の移転先として五稜郭が築造されることになったほか、開港場として欧米文化の影響を受け、本市が国際観光都市として発展する礎となった。

 黒船来航150周年(2004年)を目前に、日米和親の意を後世に伝え、ペリー提督を末永く顕彰するため、ここ函館の由緒ある地に「ペリー提督来航記念碑」を建立する。
2002年(平成14年)5月17日

ペリー提督来航記念碑建立協議会

Memorial Statue of the Visit of Commodore Matthew C.Perry to Hakodate

 Having concluded the peace and amity treaty,Commodor Matthew C.Perry of the U.S. Navy visited Hakodate on May 17,1854 with his squadron of five ships.The purpose was to survey Port Hakodate,which was to open under the treaty.Besides making a chart of Hakodate harbor, he surprised Hakodate people by introducing daguerreotype and performing Western music during his stay.The reactions of the people in those days are kept on record to this day.
 With the visit of Commodore Perry as a momentum,a star-shaped citadel “Goryokaku” was built as a new office for the Hakodate Magistrate’ s office to administer Ezochi (then Hokkaido).As an international trade port Hakodate was greatly influenced by Western culture,and this fact laid the foundation for Hakodate as an international tourism city today.

City of Hakodate

On the eve of the 150th anniversary (in 2004) of the visit of the black ships,we establish on this commemorative site the memorial statue of the visit of Commodore Matthew C.Perry to Hakodate.This is to honor his exploits and to bequeath the essence of the peace and amity to future generations.
May 17,2002

Committee for the Establishment of the Memorial Statue of the Visit of Commodore Matthew C.Perry to Hakodate

函館元町公園 


 「ペリー提督 来航時の足跡絵図」










 「ペリー提督 来航時の足跡絵図」

1、黒船 ポーハタン号(当時 小嶋又次郎が描いたもの)

1854年5月17日(新暦)午前9時にアメリカの黒船艦隊2隻が箱館港に入港 その後更に3隻が入港した。

入港した艦船は旗艦 (1)ポーハタン号 2,500トン  (2)ミシシッピー号 1,800トン  (3)マセドニアン号  (4)サウザンプトン号  (5)バンダリア号

2、箱館における日米会談

1854年5月22日 午前11時よりペリー提督と松前藩家老・松前勘解由(かげゆ)との会談が沖之口役所(後の水上警察、西警察、現在の函館市臨海研究所)の近く、山田屋寿兵衛(じゅへえ)宅で始まる。

ペリーの要求とは、休息所とする家屋2, 3棟の借り入れ、遊歩区域の境界線を定めることなどであった。しかし、一家老の身分では決定権もなく押し問答が続いた。

3、箱館山からの眺望

箱館に着いたペリー艦隊一行は、早速当時の臥牛山(がぎゅうさん)(箱館山)に登り、各種の測量や調査を始め、海図の作成等を実施 箱館湾の出入港の安全を図る。

当時の箱館山山頂には観音像が建立されていたが、明治32年に当時の軍部が函館山を要塞化するため、指示により山頂より降ろされ称名寺湯の川説教所(現在の湯川寺(とうせんじ))に収蔵され現在に至っている(称名寺:須藤隆仙氏談)。

4、姿見坂の一景

函館の姿見坂(現在の函館市弁天町13番付近)から見た風景である。これは、ペリー艦隊に乗り組んでいた従軍画家ハイネが描いたもの。

ペリー提督一行が当時の箱館を市中見学した際、実行寺、称名寺、浄玄寺、当時の八幡社(現在の函館八幡宮)を訪ねたことが判明っされている

5、称名寺の境内

これも当時ペリーが箱館市中を散策しているときに、称名寺の境内の一角で日米交流をしているときの光景を描いたものである。(須藤隆仙氏、談)


函館ロータリークラブ
創立75周年記念事業
平成21年10月24日建立
函館ロータリークラブ 会長 柴田繁男


2022-11-20

京都守護職上屋敷跡 京都府庁内

京都府庁敷地内にある 「京都守護職上屋敷跡」

幕末京都の警備を命じられた 京都守護職は、市中に数ヶ所の 広大な屋敷を構えました。 現在の府庁にあたる敷地もその 一つで、この敷地は「上屋敷」 跡にあたり、度重なる増改築を 経て慶応元年(一八六五)に完成 しました。
規模は現在の敷地ほぼすべて を占め、正門や敷石、玄関等は たいへん豪華なものだったとい われています。



容保桜 (かたもリざくら)
京都府庁旧本館中庭に、ひときわ異彩を放つ山桜があり、調査を行うと山桜の変異と思われる。 特徴として、花弁は五枚である が通常の山桜より大輪である。 花が長く、一文字状に咲き、芽 出しも茶山桜の遺伝子を持ちながら大島桜の花の要素も出て いる。この様に変異し、現状の場所で気品を保ちながら成長した のも何かの因縁かと思われる。 現地の京都府庁は元京都守護職 医 上屋敷の跡地であり、今昔の京都を見続けた場 所にこの様な桜が偶然とは言えあるのが面白 い。 今後も永く府の行政を見続ける様、 守り てたいものである。 これらの事情を踏まえて、新しい体であることが判明したこの桜を、当時守護職の任に当った、松平容保の名を継承し、 容保桜と命名する。
平成22年 春
佐野藤右衛門





板垣退助像  日光神橋の傍らより東照宮を望むように立っている

 日光 神橋付近

2022年11月17日 撮影

板垣退助像が神橋の傍らより東照宮を望むように立っている。

明治戊辰ノ役、板垣退助先生年万サニ三十二 土佐藩軍に将として東山道先鋒總督府参謀ヲ兼ネ 将二大鳥圭介等ノ卒ユル傅習隊ト今市ノ野二會戰セントス時二傅習隊日光ノ嶮二拠リ勢威大に振フ 先生兵焚ノ神廟二及フヲ憂ヒ日光山末寺飯塚台林寺ノ僧厳亮ヲ召シ大義ヲ傅習隊ニ説テ山ヲ下リ戦フベキ旨を諭セリ 僧死ヲ決シて遂ニ命ノ如クス 後土佐藩軍監谷干城モ亦輪王寺ノ衆徒櫻本院道純安居院慈立ノ二僧ト會シ首将ノ旨ヲ傅フ 敵軍遂ニ營ヲ撤シ退テ六峰越ニ據ル日光山ノ勝區䏻ク兵焚ヲ免ルヲ得タルハ 實ニ先生ノ賜ナリ 日光町深ク功徳ヲ追慕シ 率先シテ銅像建設ヲ謀ル 大方ノ有志競フテ其擧ヲ助ケ爰ニ工ヲ竣ヘ式ヲ行フ 實ニ昭和四年十二月ナリ 是ニ於テ先生ノ風貌軍装倶ニ颯爽トシテ當年ノ英姿ヲ活現セシム 即チ事ノ梗概ヲ記シテ天下後世ニ諗クト云
題字 公爵 徳川家達 (小林注 像の台座の題字)
撰文 滄溟宇田朋猪 (小林注 道路近くにある青銅碑文)
原型 白雲本山辰吉

 板垣退助は、「板垣死すとも自由は死せず」の名言で知られる明治の政治家です。
 明治の初期に自由民権運動を展開し、自由党を編成。土佐(高知)出身。明治元年(1868) 戊辰戦争の時、彼は新政府軍の将として、日光廟に立てこもった大鳥圭介らの旧幕府軍を説得し、社寺を兵火から守ったと言われます。
 その遺徳を讃え昭和4年に建設されたが最初の像は第二次大戦中に軍需に徴収された。昭和42年に再建。彫刻家、新関国臣の作。


2019-04-27

総理大臣官邸敷地の沿革

総理大臣官邸敷地の沿革

 この敷地は、武蔵野台地の東縁部に位置し、眼下には近代の初めまで溜池が広がり、近世中期には風光明媚な池として人々の憩いの景観となっていたといわれています。また、縄文時代から近世に至るさまざまな時代における人々の営みがあったことが、敷地内で痕跡として確認されています。17世紀後半には敷地内は南北に二分割され、北側には旗本屋敷があり、その後信濃飯山藩本多家上屋敷、丹後峰山藩京極家上屋敷と移り変わります。一方、南側は越後村上藩内藤家中屋敷でした。明治維新後、敷地は一橋徳川家の居宅として使用され、明治3年に鍋島家の所有となります。明治25年に完成したれんが造りの洋館は大正12年9月の関東大震災により大きな被害を受け、その後復興局へ売却されています。大正15年、震災復興に伴う中央諸官衛計画の一環として、麹町区永田町二丁目一番地旧鍋島邸跡地に総理大臣官邸を新営することとなりました。官邸は昭和4年に完成しましたが、当時は「内閣総理大臣官舎」と呼ばれており、門には表札がかかっていました。その後、官邸の老朽化、狭隘化が顕著となってきたことなどから、昭和62年、閣議了解により、従来の官邸敷地及びその西隣一帯の区域に新たな総理大臣官邸を整備することになりました。新官邸は平成14年に、また、旧官邸を改修した総理大臣新公邸は平成17年に完成し、現在に至っています。

平成17年10月         
                 設置:総理大臣官邸
                 監修:千代田区教育委員会






赤木正雄博士の像

赤木正雄博士の像

文化勲章受章文化功労者農学博士赤木正雄君は兵庫県豊岡の人である 第一高等学校に学び新渡戸稲造博士の言に感じて志を砂防に立て 爾来官にあっては初代内務省第3技術課長とし 出でては全国治水砂防協会の創立者として現在まで60有餘年君の歩んだ途は砂防の一路である わが国の砂防は君により初めて方途が確立し 国会議員としての君の発言は砂防を国政に重からしめた 今回全国治水砂防協会員の総意により君の建設した砂防会館の前に寿像を立て以て君の志を後世に伝えんとするものである

昭和46年12月2日
全国治水砂防協会長 田中角栄






溜池発祥の碑

溜池発祥の碑

 溜池は江戸時代のはじめ、江戸城の防備を兼ねた外堀兼用の上水源として作られ水道の発祥地ともなり、徳川秀忠時代には鯉、鮒を放し蓮を植えて上野の不忍池に匹敵する江戸の名所となった。徳川家光は遊泳したとも伝えられ、江戸後期には日枝神社より赤坂4丁目に通じる料金を取った銭取橋が架設され「麦とろ家」数軒と出店で、にぎわったと伝われる。
 
 明治8年より埋め立てに着手し44年に完成したが、明治21年12月には赤坂溜池町が創立され、明治42年に市電が開通し、大正10年5月に正式な町会として溜池町会が発足し、溜池角の小松ビルは元は演伎座と云う芝居館として人気を煽り東京オリンピック以後はビル街として発展し、町会名も「赤坂溜池町会」と改称し今日に到り、地下鉄新駅「溜池山王駅」の開通を記念し建立とした。(赤坂溜池町会・文責)

平成9年8月吉日 東京都 港区

2019-04-09

川舟「こうりんぼう」と十二沢川

川舟「こうりんぼう」と十二沢川
 
この地は、昭和初期まで十二沢川と魚野川の合流地点でした。
 左の写真は、当時の合流点付近の写真で昔の川辺の状況とこうりんぼうの様子をうかがうことが出来ます。
 十二沢川の河川改修工事により、写真に映し出されている石垣が発見されました。記念として石垣の一部をここに復元します。平成21年5月









道元禅師示寂の地

道元禅師示寂の地
 この地は、曹洞宗の開祖道元禅師が生涯を閉じたところである。
 道元禅師は、正治2年(1200年)に京都で生まれ、比叡山で出家の後、建仁寺の栄西の門に入って禅を学び、貞応2年(1223年)に入宋した。帰国後、建仁寺に足をとどめたが、その後、深草に興聖寺(後に宇治に移る)を建て、教化活動を続けた。晩年にいたって、権勢逃れ、越前(福井県)の地に永平寺を創建し、釈迦正伝の仏法である坐禅の厳格な宋風を樹立した。
 建長5年(1253年)病の療養のために弟子懐奘を伴って上洛し、この地(下京区高辻通西洞院西入)にあった俗弟子寛念の屋敷に滞在し同年8月に54歳の生涯を閉じた。



2018-04-25

碓日嶺鐡道碑(復元模造)

碓日嶺鐡道碑(復元模造)


軽井沢駅舎脇にある碓日嶺鐡道碑(復元模造)

陸軍大将従二位勲一等伯爵山県有朋 篆額
従四位勲四等文学博士 重野安繹 撰文


この石碑の由来については、「碓氷峠に鉄道の復活を主張するホームページ」に詳しくあるのでそちらを是非ご覧ください。

石碑についての直接リンクはこちら「碓日嶺鉄道碑

碓氷線の建設については「碓氷線の廃墟に眠る鐡道碑」に詳しい説明があります。碑文の解読も。


碓氷峠鉄道文化むらに展示されている拓本の複写
破損前の現物からの拓本でしょうか。

2018-04-09

善光寺東参道 開鑿記念碑

善光寺東参道 開鑿記念碑


記念碑

大正12年長野電鐵株式會社創立セラルルヤ善光寺東口方面開發並ビニ一般市民利便達成ノ為メ主要停車場ノ設置及之カ連絡道路ノ開鑿ヲ計畫シ關係地元六箇町區長並ニ有志相謀リ頼母子講第一公益講ヲ組織シテ經日費ノ醵出ヲ企圖シ時ノ電鐵社長神津藤平氏及長野市長丸山辨三郎氏ノ指導援助ニ依リ縣會市會ノ協賛ヲ得遂ニ道路ノ開通並ニ善光寺下驛ノ竣設ヲ見ルニ至レリ是レ實ニ如上關係者及講員各位ノ協心戮力ノ賚ニ外ナラス茲ニ碑ヲ建テ由來ヲ記シ以テ後昆ニ傳フト伝爾

信濃招魂社 在天の英霊に捧ぐ

信濃招魂社 在天の英霊に捧ぐ 
碑文書き起こし



天の英霊に捧ぐ

 限りなき蒼壁の涯に夢を追いし少年の日 国家興亡の命運を知り 率先 空への道を拓く。選ばれては陸軍航空の重責を担い、武窓に入りては、操縦通信整備の特技を修む。出でては異郷千里、征旅倥偬の日を過ごす。進みては特別攻撃隊員として玉砕、或は空戦に爆襲火戦に殪れ遺恨病魔に逝く。魂氣いまも勇雲の彼方に在す。
 戦争目的の正邪帰趨を問はず、純真な愛國の至情を抱き従順に祖國と民衆のために散華せし兄等よ、安らかに眠れ。
 ああ 星霜は往く 離魂妖魔を拂い、この平和を永遠に護り継ぎて、幽勝揺籃の山河いまも明媚たり。この信濃の地に 兄等の芳名と武勲とを子孫に留め、鎮魂の詞を捧ぐ 魂魄心あらば來たりて我等が意趣を饗(う?)けよ

昭和47年5月15日 沖縄復帰の日
元陸軍少年飛行兵第15期生 笹部 武安 撰文
同右            丸山 重雄 謹書
長野県小飛會 建之


設計監理 長野市 株式会社 園建
石工事施工 大町市三日町 柴田石材









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