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2022-11-20

京都守護職上屋敷跡 京都府庁内

京都府庁敷地内にある 「京都守護職上屋敷跡」

幕末京都の警備を命じられた 京都守護職は、市中に数ヶ所の 広大な屋敷を構えました。 現在の府庁にあたる敷地もその 一つで、この敷地は「上屋敷」 跡にあたり、度重なる増改築を 経て慶応元年(一八六五)に完成 しました。
規模は現在の敷地ほぼすべて を占め、正門や敷石、玄関等は たいへん豪華なものだったとい われています。



容保桜 (かたもリざくら)
京都府庁旧本館中庭に、ひときわ異彩を放つ山桜があり、調査を行うと山桜の変異と思われる。 特徴として、花弁は五枚である が通常の山桜より大輪である。 花が長く、一文字状に咲き、芽 出しも茶山桜の遺伝子を持ちながら大島桜の花の要素も出て いる。この様に変異し、現状の場所で気品を保ちながら成長した のも何かの因縁かと思われる。 現地の京都府庁は元京都守護職 医 上屋敷の跡地であり、今昔の京都を見続けた場 所にこの様な桜が偶然とは言えあるのが面白 い。 今後も永く府の行政を見続ける様、 守り てたいものである。 これらの事情を踏まえて、新しい体であることが判明したこの桜を、当時守護職の任に当った、松平容保の名を継承し、 容保桜と命名する。
平成22年 春
佐野藤右衛門





板垣退助像  日光神橋の傍らより東照宮を望むように立っている

 日光 神橋付近

2022年11月17日 撮影

板垣退助像が神橋の傍らより東照宮を望むように立っている。

明治戊辰ノ役、板垣退助先生年万サニ三十二 土佐藩軍に将として東山道先鋒總督府参謀ヲ兼ネ 将二大鳥圭介等ノ卒ユル傅習隊ト今市ノ野二會戰セントス時二傅習隊日光ノ嶮二拠リ勢威大に振フ 先生兵焚ノ神廟二及フヲ憂ヒ日光山末寺飯塚台林寺ノ僧厳亮ヲ召シ大義ヲ傅習隊ニ説テ山ヲ下リ戦フベキ旨を諭セリ 僧死ヲ決シて遂ニ命ノ如クス 後土佐藩軍監谷干城モ亦輪王寺ノ衆徒櫻本院道純安居院慈立ノ二僧ト會シ首将ノ旨ヲ傅フ 敵軍遂ニ營ヲ撤シ退テ六峰越ニ據ル日光山ノ勝區䏻ク兵焚ヲ免ルヲ得タルハ 實ニ先生ノ賜ナリ 日光町深ク功徳ヲ追慕シ 率先シテ銅像建設ヲ謀ル 大方ノ有志競フテ其擧ヲ助ケ爰ニ工ヲ竣ヘ式ヲ行フ 實ニ昭和四年十二月ナリ 是ニ於テ先生ノ風貌軍装倶ニ颯爽トシテ當年ノ英姿ヲ活現セシム 即チ事ノ梗概ヲ記シテ天下後世ニ諗クト云
題字 公爵 徳川家達 (小林注 像の台座の題字)
撰文 滄溟宇田朋猪 (小林注 道路近くにある青銅碑文)
原型 白雲本山辰吉

 板垣退助は、「板垣死すとも自由は死せず」の名言で知られる明治の政治家です。
 明治の初期に自由民権運動を展開し、自由党を編成。土佐(高知)出身。明治元年(1868) 戊辰戦争の時、彼は新政府軍の将として、日光廟に立てこもった大鳥圭介らの旧幕府軍を説得し、社寺を兵火から守ったと言われます。
 その遺徳を讃え昭和4年に建設されたが最初の像は第二次大戦中に軍需に徴収された。昭和42年に再建。彫刻家、新関国臣の作。


2019-04-27

総理大臣官邸敷地の沿革

総理大臣官邸敷地の沿革

 この敷地は、武蔵野台地の東縁部に位置し、眼下には近代の初めまで溜池が広がり、近世中期には風光明媚な池として人々の憩いの景観となっていたといわれています。また、縄文時代から近世に至るさまざまな時代における人々の営みがあったことが、敷地内で痕跡として確認されています。17世紀後半には敷地内は南北に二分割され、北側には旗本屋敷があり、その後信濃飯山藩本多家上屋敷、丹後峰山藩京極家上屋敷と移り変わります。一方、南側は越後村上藩内藤家中屋敷でした。明治維新後、敷地は一橋徳川家の居宅として使用され、明治3年に鍋島家の所有となります。明治25年に完成したれんが造りの洋館は大正12年9月の関東大震災により大きな被害を受け、その後復興局へ売却されています。大正15年、震災復興に伴う中央諸官衛計画の一環として、麹町区永田町二丁目一番地旧鍋島邸跡地に総理大臣官邸を新営することとなりました。官邸は昭和4年に完成しましたが、当時は「内閣総理大臣官舎」と呼ばれており、門には表札がかかっていました。その後、官邸の老朽化、狭隘化が顕著となってきたことなどから、昭和62年、閣議了解により、従来の官邸敷地及びその西隣一帯の区域に新たな総理大臣官邸を整備することになりました。新官邸は平成14年に、また、旧官邸を改修した総理大臣新公邸は平成17年に完成し、現在に至っています。

平成17年10月         
                 設置:総理大臣官邸
                 監修:千代田区教育委員会






赤木正雄博士の像

赤木正雄博士の像

文化勲章受章文化功労者農学博士赤木正雄君は兵庫県豊岡の人である 第一高等学校に学び新渡戸稲造博士の言に感じて志を砂防に立て 爾来官にあっては初代内務省第3技術課長とし 出でては全国治水砂防協会の創立者として現在まで60有餘年君の歩んだ途は砂防の一路である わが国の砂防は君により初めて方途が確立し 国会議員としての君の発言は砂防を国政に重からしめた 今回全国治水砂防協会員の総意により君の建設した砂防会館の前に寿像を立て以て君の志を後世に伝えんとするものである

昭和46年12月2日
全国治水砂防協会長 田中角栄






溜池発祥の碑

溜池発祥の碑

 溜池は江戸時代のはじめ、江戸城の防備を兼ねた外堀兼用の上水源として作られ水道の発祥地ともなり、徳川秀忠時代には鯉、鮒を放し蓮を植えて上野の不忍池に匹敵する江戸の名所となった。徳川家光は遊泳したとも伝えられ、江戸後期には日枝神社より赤坂4丁目に通じる料金を取った銭取橋が架設され「麦とろ家」数軒と出店で、にぎわったと伝われる。
 
 明治8年より埋め立てに着手し44年に完成したが、明治21年12月には赤坂溜池町が創立され、明治42年に市電が開通し、大正10年5月に正式な町会として溜池町会が発足し、溜池角の小松ビルは元は演伎座と云う芝居館として人気を煽り東京オリンピック以後はビル街として発展し、町会名も「赤坂溜池町会」と改称し今日に到り、地下鉄新駅「溜池山王駅」の開通を記念し建立とした。(赤坂溜池町会・文責)

平成9年8月吉日 東京都 港区

2019-04-09

川舟「こうりんぼう」と十二沢川

川舟「こうりんぼう」と十二沢川
 
この地は、昭和初期まで十二沢川と魚野川の合流地点でした。
 左の写真は、当時の合流点付近の写真で昔の川辺の状況とこうりんぼうの様子をうかがうことが出来ます。
 十二沢川の河川改修工事により、写真に映し出されている石垣が発見されました。記念として石垣の一部をここに復元します。平成21年5月









道元禅師示寂の地

道元禅師示寂の地
 この地は、曹洞宗の開祖道元禅師が生涯を閉じたところである。
 道元禅師は、正治2年(1200年)に京都で生まれ、比叡山で出家の後、建仁寺の栄西の門に入って禅を学び、貞応2年(1223年)に入宋した。帰国後、建仁寺に足をとどめたが、その後、深草に興聖寺(後に宇治に移る)を建て、教化活動を続けた。晩年にいたって、権勢逃れ、越前(福井県)の地に永平寺を創建し、釈迦正伝の仏法である坐禅の厳格な宋風を樹立した。
 建長5年(1253年)病の療養のために弟子懐奘を伴って上洛し、この地(下京区高辻通西洞院西入)にあった俗弟子寛念の屋敷に滞在し同年8月に54歳の生涯を閉じた。



2018-04-25

碓日嶺鐡道碑(復元模造)

碓日嶺鐡道碑(復元模造)


軽井沢駅舎脇にある碓日嶺鐡道碑(復元模造)

陸軍大将従二位勲一等伯爵山県有朋 篆額
従四位勲四等文学博士 重野安繹 撰文


この石碑の由来については、「碓氷峠に鉄道の復活を主張するホームページ」に詳しくあるのでそちらを是非ご覧ください。

石碑についての直接リンクはこちら「碓日嶺鉄道碑

碓氷線の建設については「碓氷線の廃墟に眠る鐡道碑」に詳しい説明があります。碑文の解読も。


碓氷峠鉄道文化むらに展示されている拓本の複写
破損前の現物からの拓本でしょうか。

2018-04-09

善光寺東参道 開鑿記念碑

善光寺東参道 開鑿記念碑


記念碑

大正12年長野電鐵株式會社創立セラルルヤ善光寺東口方面開發並ビニ一般市民利便達成ノ為メ主要停車場ノ設置及之カ連絡道路ノ開鑿ヲ計畫シ關係地元六箇町區長並ニ有志相謀リ頼母子講第一公益講ヲ組織シテ經日費ノ醵出ヲ企圖シ時ノ電鐵社長神津藤平氏及長野市長丸山辨三郎氏ノ指導援助ニ依リ縣會市會ノ協賛ヲ得遂ニ道路ノ開通並ニ善光寺下驛ノ竣設ヲ見ルニ至レリ是レ實ニ如上關係者及講員各位ノ協心戮力ノ賚ニ外ナラス茲ニ碑ヲ建テ由來ヲ記シ以テ後昆ニ傳フト伝爾

信濃招魂社 在天の英霊に捧ぐ

信濃招魂社 在天の英霊に捧ぐ 
碑文書き起こし



天の英霊に捧ぐ

 限りなき蒼壁の涯に夢を追いし少年の日 国家興亡の命運を知り 率先 空への道を拓く。選ばれては陸軍航空の重責を担い、武窓に入りては、操縦通信整備の特技を修む。出でては異郷千里、征旅倥偬の日を過ごす。進みては特別攻撃隊員として玉砕、或は空戦に爆襲火戦に殪れ遺恨病魔に逝く。魂氣いまも勇雲の彼方に在す。
 戦争目的の正邪帰趨を問はず、純真な愛國の至情を抱き従順に祖國と民衆のために散華せし兄等よ、安らかに眠れ。
 ああ 星霜は往く 離魂妖魔を拂い、この平和を永遠に護り継ぎて、幽勝揺籃の山河いまも明媚たり。この信濃の地に 兄等の芳名と武勲とを子孫に留め、鎮魂の詞を捧ぐ 魂魄心あらば來たりて我等が意趣を饗(う?)けよ

昭和47年5月15日 沖縄復帰の日
元陸軍少年飛行兵第15期生 笹部 武安 撰文
同右            丸山 重雄 謹書
長野県小飛會 建之


設計監理 長野市 株式会社 園建
石工事施工 大町市三日町 柴田石材









https://photos.app.goo.gl/zEDG1DfD9v12MDH42

2018-04-08

善光寺日本忠霊殿

善光寺日本忠霊殿






善光寺日本忠霊殿造営の由来
奉祀の霊240万柱

善光寺日本忠霊殿は戊辰の役(明治元年ー1868年ー)以降太平洋戦争に至る間 国難に殉じた240万の忠霊を奉祀(ほうし)(おまつり)する わが国ただ一つの仏式による霊廟(れいびょう)(おたまや)であり 明治39年(1906年)の創建に成ります。
たまたま日支事変 太平洋戦争における殉国の将兵100万余柱の遺骨遺髪など「おかたみ」を勧請(かんじょう)(おむかえ)したのを機縁(きえん)に 新たに永世不朽(えいせいふきゅう)の殿堂を建立することに財団法人善光寺日本忠霊殿造営奉賛会を結成 浄財を全国に求めました
趣旨に賛して寄進する有志都鄙(とひ)を蔽(おう)うて余さず 造営の工程も順調に進んで昭和45年3月(1970年)廟塔(びょうとう)を落成し 240万の忠霊安らかにここに鎮まりました。

平和祈願の霊廟
本尊は阿弥陀如来

善光寺日本忠霊殿は 善光寺の本尊一光三尊仏(いっこうさんぞんぶつ)=阿弥陀如来(あみだにょらい) 観世音菩薩(かんぜおんぼさつ) 勢至菩薩(せいしぼさつ)=請来(しょうらい)(おむかえ)して本尊と定めました
年祖国に殉じ 人類永遠の平和の礎(いしずえ)と化した精忠(せいちゅう)赫々(かくかく)の霊魂(みたま)は 仏のみちびきによってこの霊廟に鎮まり阿弥陀如来の慈悲のみ光のもと 永久(とわ)に国家民生の安泰をお護りするのであります
敬仰追慕(けいぎょうついぼ)して忠霊の冥福を念じ 祖国万邦の和平繁栄を冀(こいねが)い併せて一家同胞(はらから)の息災延命(さわりなき)をお祈りいたしましょう

昭和45年4月吉日



善光寺日本忠霊殿
戊辰戦争(ママ)から第二次世界大戦(ママ)までの戦争で亡くなった、約
万柱の英霊を祀る仏式霊廟です。明治39年(1906年)に創建され、昭和45年(1970年)に現在の姿に改築されました。1階には善光寺ゆかりの宝物を展示する「善光寺資料館」が併設されています。