霊石 不動堂縁起 西山浄土宗 不動明王院
京都府京都市下京区油小路塩小路下る南不動堂町7
京都府京都市下京区油小路塩小路下る南不動堂町7
大内小学校の碑 (現 京都市立梅小路小学校)
大内小学校の碑
沿革史
大内小学校は明治五年東寺境内に東寺廻り村小学校として創設され、以後八条小学校、脩道小学校と校名を改称。明治十九年現在地に移転し、大正二年 更に校名を大内尋常小学校と改称した。開校以来百二十四年の歩みの中に一万三千余名の卒業生を世に送り出した。
平成七年二月 校区の人々の賛同を得て安寧小学校との統合を決定し、新しい統合校 梅小路小学校に後を託して、平成八年三月その輝かしい歴史の幕を閉じた。
校歌
一
春うららなる 大内の庭に
萌ゆる若草 しげくたくまし
つつむ力に 百千の花と
咲きて競わん 美しの色
二
照らす光と 教えのつゆに
若草しげりて 瑞枝は伸びぬ
いでや励みて 学びの庭に
良き実結ばん 望みの秋を
はなし塚
台東区寿二丁目九番七号 本法寺
この塚が建立された昭和十六年十月、当時国は太平洋戦 争へと向かう戦時下にあり、各種芸能団体は、演題種目に ついて自粛を強いられていた。落語界では、演題を甲乙丙 丁の四種に分類し、丁種には時局にあわないものとして花柳界、酒、妾に関する噺、廓噺等五十三種を選び、禁演落語 として発表、自粛の姿勢を示した。この中には江戸文芸の名作といわれた『明烏』『五人廻し』『木乃伊取』等を含み、高座から聴けなくなった。
「はなし塚」は、これら名作と落語界先輩の霊を弔うた め、当時の講談落語協会、小咄を作る会、落語講談家一同、 落語定席席主が建立したもので、塚には禁演となった落語 の台本等が納められた。
戦後の昭和二十一年九月、塚の前で禁演落語復活祭が行われ、それまで納められていたものに替えて、戦時中の台本などが納められた。
平成十六年三月
台東区教育委員会
明治天皇聖蹟碑
明治天皇聖蹟碑
この碑は、明治14年(1881年)9月1日に明治天皇が札幌農学校(現時計台)を行幸されたことを記念 し、昭和9年(1934年)9月1日に建立されたものです。当時は、時計台正門南側(現在の『写真撮影スポッ ト』付近)に配置されていました。
昭和20年(1945年)の終戦直後、連合軍の進駐を前に撤去され、戦後の混乱を経てその所在は永らく不明でしたが、昭和末期に中島公園管理事務所で保管されているのが発見され、その後は西区の「手稲記念館」で保管されていました。
時計台の歴史を理解する貴重な資料として、明治天皇行幸140年目となる令和3年(2021年)に再建立す ることとなり、76年の時を経て、元の場所である時計台に復元しました。
碑の正面「明治天皇聖蹟」の揮毫は東郷平八郎、裏面の「旧札幌農学校演武場」及び側面の「明治天皇行幸明 治十四年九月一日」の揮毫は、元北海道帝国大学総長 佐藤昌介によるものとされています。
参考文献:札幌市教育委員会編『さっぽろ文庫6 時計台』(昭和53年10月発行)
札幌市
Emperor Meiji Sacred Site Monument This monument was erected on September 1, 1934 (Showa 9) to commemorate the Emperor Meiji's visit to Sapporo Agricultural School (now the Clock Tower) on September 1, 1881 (Meiji 14). At that time, it was placed on the south side of the main gate of the Clock Tower (near the current "photo spot").
Immediately after the end of the war in 1945 (Showa 20), it was removed before the Allied forces moved in, and its whereabouts after that were unknown due to the confusion of the war. In the late Showa period, it was found stored at the Nakajima Park management office, and then kept at the "Teine Memorial Museum" in the Nishi Ward. As a valuable resource for understanding the history of the Clock Tower, it was decided to re-erect the monument in 2021 (Reiwa 3), the 140th anniversary of the Emperor Meiji's visit, and after 76 years, it was restored to its original location by the Clock Tower. The front of the monument, "Sacred Site of Emperor Meiji" was written by Heihachiro Togo, while the back of the monument, "Former Sapporo Agricultural School Demonstration Hall" and the side of the monument, "Emperor Meiji's Visit on September 1, Meiji 14" were written by Shosuke Sato, former president of Hokkaido Imperial University.
Reference: Sapporo City Board of Education, "Sapporo Bunko (book collection) 6: Clock Tower" (Oct. 1978 (Showa 53)).
明治天皇上陸記念碑
赤御影石の地球儀の上に、青銅の鳳凰が羽を広げた碑は、明治天皇が明治9年(1876年)、東北・北海道巡幸で来函の際の、 旧税関桟橋への上陸を記したものである。同14年(1881年)に再び来道の際、小樽から陸路函館へ巡幸し、ここから乗船して 青森へ向かった。
明治9年の下船・乗船と同14年の乗船で、計3回となることから、三蹤碑とも呼ばれている。この碑は、函館出身の彫刻家· 梁川剛一の作で、昭和10年(1935年)9月7日に除幕された。同16年(1941年)に7月20日を「海の記念日」と定めたのは、 明治天皇の明治9年(1876年)の巡幸の際、7月18日に離函し、20日に横浜に帰着したことを記念したものである。平成8年 (1996年)から国民の祝日「海の日」となった。
函館市
The Meiji Emperor's Landing Point
This monument, a bronze Chinese phoenix spreading its wings on a red granite globe, commemorates the Meiji Emperor's visits to Hakodate. In 1876, he landed at and departed from the pier of Hakodate Customs House during a tour of Tohoku (northern Honshu) and Hokkaido on the Scottish steamship Meiji-maru. In 1881 he paid another visit to Hakodate at the end of a Hokkaido tour which commenced in Otaru.
The monument has also been called "Sansho-hi" meaning "three happy visits", referring to the three times the Emperor visited this site. The monument was engraved by Yanagawa Goichi, who was born in Hakodate, and was unveiled on September 7, 1935.
On July 20, 1941, "Marine Memorial Day" was established to commemorate the Meiji Emperor's 1876 Tokoku and Hakodate voyage. The final leg, from Hakodate back to Yokohama, commenced on July 18 and took two days. In 1996, this day was renamed "Marine Day" and made an annual national holiday.
CITY OF HAKODATE
北海道第一歩の地
明治維新後函館は 名実共に北海道の門戸となった。そして北海道の地を踏む者がその第一歩を印したのはこの東浜桟橋である。
後に若松町に鉄道桟橋 ができてからは旧桟橋と も呼ばれた。国道四号線 が認定されるや 北海道 の道路の基点として ここに道路元標が 建てられた。
明治百年を迎えるに当たり 此地に記念碑をたてて 開拓に渡道した先人の足跡をしのぶ。
昭和四十三年十一月三日
寄贈 日本中央競馬会
碑文 阿部龍夫
設計 明石信道
彫刻 根本土龍
施工 大成建設式会社
北海道第一歩の地碑
明治維新後、函館は名実ともに北海道の門戸となり、この北海道の地を踏むものがその第一歩を印 したのが東浜桟橋(旧桟橋)である。
青函航路は、明治6年(1873年)に開拓使の弘明丸によって一般輸送を開始し、明治12年(1879年)に三菱会社が開拓使から青函航路を譲り受け、以後、日本郵船鉄道会社などによって継続されてきたが、明治41年(1908年)に国有鉄道の航路として比羅夫丸、田村丸が就航した。
当時、連絡船は沖に停泊し、客は艀舟でこの桟橋との間を行き来した。この東浜桟橋は、明治4年 (1871年)に作られた。
連絡船の桟橋は、明治43年(1910年)2月に若松ふ頭に新設移転したが、その後もこの桟橋は活用 され、北洋漁業の拠点などとしても重要な役割を果たしてきたが、とくに戦前の北洋漁業の発着時には、 大変な賑わいをみせていた。平成30年度から架け替え工事を実施。
この記念碑は、熊にいかりを配し、開道100年を記念して開拓に渡道した先人の足跡をしのぶと共に、 北海道発展の未来を志向して、昭和43年(1968年)9月に建立されたものである。
函館市
Modern Gateway to Hokkaido
After the Meiji Restoration in 1868, Hakodate became the main entry point to Hokkaido; in fact people arriving on the island took their first steps here at Higashihama Pier.
In 1873 the ship Komei-maru commenced the first regular transport service between Aomori and Hakodate. In 1879 the Mitsubishi company took over the operation and continued it under subsidiaries such as the Japan Postal Shipping and Rail Company.
In 1908 the Hirafu-maru and Tamura-maru entered service on the Aomori-Hakodate run as part of the Japanese
National Railways network. In the time before the harbour was dredged, ferries anchored off the port and passengers were transferred to and fro by lighters. This pier was built in 1871.
After ferries began using Wakamatsu wharf in February 1910, this pier came to play an important role as a base for the northern sea fishery, and was particularly busy servicing arriving and departing ships during the time before World War II.
This monument, with its bear and anchor, was built in September 1968 to commemorate the centenary of the arrival of people who came to develop Hokkaido, and also for its future development.
CITY OF HAKODATE
https://photos.app.goo.gl/R7svE2YtRpPdnDqV9
函館元町公園
「ペリー提督 来航時の足跡絵図」
「ペリー提督 来航時の足跡絵図」
1、黒船 ポーハタン号(当時 小嶋又次郎が描いたもの)
1854年5月17日(新暦)午前9時にアメリカの黒船艦隊2隻が箱館港に入港 その後更に3隻が入港した。
入港した艦船は旗艦 (1)ポーハタン号 2,500トン (2)ミシシッピー号 1,800トン (3)マセドニアン号 (4)サウザンプトン号 (5)バンダリア号
2、箱館における日米会談
1854年5月22日 午前11時よりペリー提督と松前藩家老・松前勘解由(かげゆ)との会談が沖之口役所(後の水上警察、西警察、現在の函館市臨海研究所)の近く、山田屋寿兵衛(じゅへえ)宅で始まる。
ペリーの要求とは、休息所とする家屋2, 3棟の借り入れ、遊歩区域の境界線を定めることなどであった。しかし、一家老の身分では決定権もなく押し問答が続いた。
3、箱館山からの眺望
箱館に着いたペリー艦隊一行は、早速当時の臥牛山(がぎゅうさん)(箱館山)に登り、各種の測量や調査を始め、海図の作成等を実施 箱館湾の出入港の安全を図る。
当時の箱館山山頂には観音像が建立されていたが、明治32年に当時の軍部が函館山を要塞化するため、指示により山頂より降ろされ称名寺湯の川説教所(現在の湯川寺(とうせんじ))に収蔵され現在に至っている(称名寺:須藤隆仙氏談)。
4、姿見坂の一景
函館の姿見坂(現在の函館市弁天町13番付近)から見た風景である。これは、ペリー艦隊に乗り組んでいた従軍画家ハイネが描いたもの。
ペリー提督一行が当時の箱館を市中見学した際、実行寺、称名寺、浄玄寺、当時の八幡社(現在の函館八幡宮)を訪ねたことが判明っされている
5、称名寺の境内
これも当時ペリーが箱館市中を散策しているときに、称名寺の境内の一角で日米交流をしているときの光景を描いたものである。(須藤隆仙氏、談)
函館ロータリークラブ
創立75周年記念事業
平成21年10月24日建立
函館ロータリークラブ 会長 柴田繁男
お台場 築いたのは、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門
(2020年1月16日撮影)
幕府の命を受けこのお台場を築いたのは、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門です。
江川太郎左衛門は江戸時代末期の人です。
その時代にあって、その後の日本に多くのものを残しました。
このお台場建設のほか、同じく国指定史跡の韮山反射炉。これは産業遺構として世界遺産に登録されました。
その他のことは、こちらで。
ひらめきと感動の世界へのリンク。
「江川英龍 日本を守った知られざる英雄」
https://youtu.be/yfGDZvu_GAU
都立台場公園のあらまし 台場公園 (第三台場)
「お台場」の名で知られる品川台場は、江戸幕府が黒船来襲にそなえて品川沖に築いた 砲台跡です。設計者は伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍で、ベリーが浦賀に来航し た翌月の嘉永六年(一八五三年) 八月に着工、年三ヶ月の間に六基が完成しました。 現在は大正十五年(一九二六年)に国の史跡に指定された第三、第六台場だけが残されています。 このうち第三台場は、昭和三年東京市(都)によって整備され、台場公園として解放 されています。 周囲には、海面から五~七メートルの石垣積みの土手が築かれ、黒松が植えられています。 また内側の平坦なくぼ地には、陣屋、弾薬庫跡などがあります。史跡指定 大正15年12月20日 (外周30間 約55m〉 の海面を含む
京都府庁敷地内にある 「京都守護職上屋敷跡」
幕末京都の警備を命じられた 京都守護職は、市中に数ヶ所の 広大な屋敷を構えました。 現在の府庁にあたる敷地もその 一つで、この敷地は「上屋敷」 跡にあたり、度重なる増改築を 経て慶応元年(一八六五)に完成 しました。
規模は現在の敷地ほぼすべて を占め、正門や敷石、玄関等は たいへん豪華なものだったとい われています。
日光 神橋付近
2022年11月17日 撮影
板垣退助像が神橋の傍らより東照宮を望むように立っている。
板垣退助は、「板垣死すとも自由は死せず」の名言で知られる明治の政治家です。
明治の初期に自由民権運動を展開し、自由党を編成。土佐(高知)出身。明治元年(1868) 戊辰戦争の時、彼は新政府軍の将として、日光廟に立てこもった大鳥圭介らの旧幕府軍を説得し、社寺を兵火から守ったと言われます。
その遺徳を讃え昭和4年に建設されたが最初の像は第二次大戦中に軍需に徴収された。昭和42年に再建。彫刻家、新関国臣の作。
動輪の由来
ここはかつて東京鉄道教習所があり、広大な敷地に校舎、大講堂、図書館、プール、寄宿舎など立派な施設が完備され、多数の鉄道マンが勉学にいそしんだ場所である。
当時の所在地
東京府北豊島郡西巣鴨町字池袋
敷地および建物
約37,000平方米の敷地に校舎、大講堂、寄宿舎など約100棟の建物があった。
存在した時期
大正13年(1924年)~昭和29年(1954年)
またこの地は鉄道開通50年記念事業の一環として設立認可された財団法人鐵道育英会により設立した東京鐵道中学が東京鐵道教習所内に開校し、後に東京育英中学、東京育英中学校、」東京育英高等学校、芝浦工業大学高等学校と改称し、昭和57年まで存在していた場所であもある。
存在した時期
大正13年(1924年)~昭和57年(1982年)
これらの施設は昭和20年4月14日の東京大空襲で一旦焼失した。
なお、この地は成蹊学園発祥の地でもあり、若者と教育に由緒深い土地柄である。