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2022-11-20

お台場 築いたのは、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門

お台場 築いたのは、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門
(2020年1月16日撮影)

幕府の命を受けこのお台場を築いたのは、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門です。
江川太郎左衛門は江戸時代末期の人です。
その時代にあって、その後の日本に多くのものを残しました。
このお台場建設のほか、同じく国指定史跡の韮山反射炉。これは産業遺構として世界遺産に登録されました。
その他のことは、こちらで。
ひらめきと感動の世界へのリンク。
「江川英龍 日本を守った知られざる英雄」

https://youtu.be/yfGDZvu_GAU



都立台場公園のあらまし 台場公園 (第三台場)



「お台場」の名で知られる品川台場は、江戸幕府が黒船来襲にそなえて品川沖に築いた 砲台跡です。設計者は伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍で、ベリーが浦賀に来航し た翌月の嘉永六年(一八五三年) 八月に着工、年三ヶ月の間に六基が完成しました。 現在は大正十五年(一九二六年)に国の史跡に指定された第三、第六台場だけが残されています。 このうち第三台場は、昭和三年東京市(都)によって整備され、台場公園として解放 されています。 周囲には、海面から五~七メートルの石垣積みの土手が築かれ、黒松が植えられています。 また内側の平坦なくぼ地には、陣屋、弾薬庫跡などがあります。

史跡指定 大正15年12月20日 (外周30間 約55m〉 の海面を含む



京都守護職上屋敷跡 京都府庁内

京都府庁敷地内にある 「京都守護職上屋敷跡」

幕末京都の警備を命じられた 京都守護職は、市中に数ヶ所の 広大な屋敷を構えました。 現在の府庁にあたる敷地もその 一つで、この敷地は「上屋敷」 跡にあたり、度重なる増改築を 経て慶応元年(一八六五)に完成 しました。
規模は現在の敷地ほぼすべて を占め、正門や敷石、玄関等は たいへん豪華なものだったとい われています。



容保桜 (かたもリざくら)
京都府庁旧本館中庭に、ひときわ異彩を放つ山桜があり、調査を行うと山桜の変異と思われる。 特徴として、花弁は五枚である が通常の山桜より大輪である。 花が長く、一文字状に咲き、芽 出しも茶山桜の遺伝子を持ちながら大島桜の花の要素も出て いる。この様に変異し、現状の場所で気品を保ちながら成長した のも何かの因縁かと思われる。 現地の京都府庁は元京都守護職 医 上屋敷の跡地であり、今昔の京都を見続けた場 所にこの様な桜が偶然とは言えあるのが面白 い。 今後も永く府の行政を見続ける様、 守り てたいものである。 これらの事情を踏まえて、新しい体であることが判明したこの桜を、当時守護職の任に当った、松平容保の名を継承し、 容保桜と命名する。
平成22年 春
佐野藤右衛門





板垣退助像  日光神橋の傍らより東照宮を望むように立っている

 日光 神橋付近

2022年11月17日 撮影

板垣退助像が神橋の傍らより東照宮を望むように立っている。

明治戊辰ノ役、板垣退助先生年万サニ三十二 土佐藩軍に将として東山道先鋒總督府参謀ヲ兼ネ 将二大鳥圭介等ノ卒ユル傅習隊ト今市ノ野二會戰セントス時二傅習隊日光ノ嶮二拠リ勢威大に振フ 先生兵焚ノ神廟二及フヲ憂ヒ日光山末寺飯塚台林寺ノ僧厳亮ヲ召シ大義ヲ傅習隊ニ説テ山ヲ下リ戦フベキ旨を諭セリ 僧死ヲ決シて遂ニ命ノ如クス 後土佐藩軍監谷干城モ亦輪王寺ノ衆徒櫻本院道純安居院慈立ノ二僧ト會シ首将ノ旨ヲ傅フ 敵軍遂ニ營ヲ撤シ退テ六峰越ニ據ル日光山ノ勝區䏻ク兵焚ヲ免ルヲ得タルハ 實ニ先生ノ賜ナリ 日光町深ク功徳ヲ追慕シ 率先シテ銅像建設ヲ謀ル 大方ノ有志競フテ其擧ヲ助ケ爰ニ工ヲ竣ヘ式ヲ行フ 實ニ昭和四年十二月ナリ 是ニ於テ先生ノ風貌軍装倶ニ颯爽トシテ當年ノ英姿ヲ活現セシム 即チ事ノ梗概ヲ記シテ天下後世ニ諗クト云
題字 公爵 徳川家達 (小林注 像の台座の題字)
撰文 滄溟宇田朋猪 (小林注 道路近くにある青銅碑文)
原型 白雲本山辰吉

 板垣退助は、「板垣死すとも自由は死せず」の名言で知られる明治の政治家です。
 明治の初期に自由民権運動を展開し、自由党を編成。土佐(高知)出身。明治元年(1868) 戊辰戦争の時、彼は新政府軍の将として、日光廟に立てこもった大鳥圭介らの旧幕府軍を説得し、社寺を兵火から守ったと言われます。
 その遺徳を讃え昭和4年に建設されたが最初の像は第二次大戦中に軍需に徴収された。昭和42年に再建。彫刻家、新関国臣の作。


2022-04-24

旧新橋停車場

旧新橋停車場 駅舎玄関遺構 ゼロマイル標識 プラットホーム 創業時の線路



駅舎玄関遺構

ここに残されているのは、正面玄関の階段の最下段として使われていた切石です。正面玄関の階段は9段あったこと が、当時の写真から分かっています。

2021-04-24

動輪の由来

 動輪の由来

ここはかつて東京鉄道教習所があり、広大な敷地に校舎、大講堂、図書館、プール、寄宿舎など立派な施設が完備され、多数の鉄道マンが勉学にいそしんだ場所である。

当時の所在地
東京府北豊島郡西巣鴨町字池袋

敷地および建物
約37,000平方米の敷地に校舎、大講堂、寄宿舎など約100棟の建物があった。

存在した時期
大正13年(1924年)~昭和29年(1954年)

またこの地は鉄道開通50年記念事業の一環として設立認可された財団法人鐵道育英会により設立した東京鐵道中学が東京鐵道教習所内に開校し、後に東京育英中学、東京育英中学校、」東京育英高等学校、芝浦工業大学高等学校と改称し、昭和57年まで存在していた場所であもある。

存在した時期
大正13年(1924年)~昭和57年(1982年)

これらの施設は昭和20年4月14日の東京大空襲で一旦焼失した。
なお、この地は成蹊学園発祥の地でもあり、若者と教育に由緒深い土地柄である。









2021-03-31

雷神山 児童遊園

 雷神山 児童遊園


雷神山の由来

應徳年間(1084-1087)疫病流行の折、これを鎮めるため雷神を祀った雷(いかずち)神社が建てられた。以来この土地は雷神山と呼ばれ、病気平癒を祈願して多くの人々が参拝するようになったという。戦後、氷川神社に合祀され児童遊園として生まれ変わった現在雷神山の地名と参道の桜並木にその名残を留めている。










2019-04-27

総理大臣官邸敷地の沿革

総理大臣官邸敷地の沿革

 この敷地は、武蔵野台地の東縁部に位置し、眼下には近代の初めまで溜池が広がり、近世中期には風光明媚な池として人々の憩いの景観となっていたといわれています。また、縄文時代から近世に至るさまざまな時代における人々の営みがあったことが、敷地内で痕跡として確認されています。17世紀後半には敷地内は南北に二分割され、北側には旗本屋敷があり、その後信濃飯山藩本多家上屋敷、丹後峰山藩京極家上屋敷と移り変わります。一方、南側は越後村上藩内藤家中屋敷でした。明治維新後、敷地は一橋徳川家の居宅として使用され、明治3年に鍋島家の所有となります。明治25年に完成したれんが造りの洋館は大正12年9月の関東大震災により大きな被害を受け、その後復興局へ売却されています。大正15年、震災復興に伴う中央諸官衛計画の一環として、麹町区永田町二丁目一番地旧鍋島邸跡地に総理大臣官邸を新営することとなりました。官邸は昭和4年に完成しましたが、当時は「内閣総理大臣官舎」と呼ばれており、門には表札がかかっていました。その後、官邸の老朽化、狭隘化が顕著となってきたことなどから、昭和62年、閣議了解により、従来の官邸敷地及びその西隣一帯の区域に新たな総理大臣官邸を整備することになりました。新官邸は平成14年に、また、旧官邸を改修した総理大臣新公邸は平成17年に完成し、現在に至っています。

平成17年10月         
                 設置:総理大臣官邸
                 監修:千代田区教育委員会






溜池発祥の碑

溜池発祥の碑

 溜池は江戸時代のはじめ、江戸城の防備を兼ねた外堀兼用の上水源として作られ水道の発祥地ともなり、徳川秀忠時代には鯉、鮒を放し蓮を植えて上野の不忍池に匹敵する江戸の名所となった。徳川家光は遊泳したとも伝えられ、江戸後期には日枝神社より赤坂4丁目に通じる料金を取った銭取橋が架設され「麦とろ家」数軒と出店で、にぎわったと伝われる。
 
 明治8年より埋め立てに着手し44年に完成したが、明治21年12月には赤坂溜池町が創立され、明治42年に市電が開通し、大正10年5月に正式な町会として溜池町会が発足し、溜池角の小松ビルは元は演伎座と云う芝居館として人気を煽り東京オリンピック以後はビル街として発展し、町会名も「赤坂溜池町会」と改称し今日に到り、地下鉄新駅「溜池山王駅」の開通を記念し建立とした。(赤坂溜池町会・文責)

平成9年8月吉日 東京都 港区

2019-04-09

子者清水

子者清水

 江戸幕府は下総国ほかに野馬を育てる牧を設けました。現在の習志野台一帯は広大な下野牧の一部でありました。その一角に、「子は清水、親は酒」という民話が伝えられる泉がありました。享保7年(1722年)の小金下野牧図には「コハ清水ト云出水有」と記され、この近辺にあった泉はすでに”こは清水”と呼ばれていたことがわかります。明治以降、牧が陸軍演習場になると、泉は軍馬の水吞み場として整備されました。昭和3年の習志野演習場図には「子者清水」とあります。戦後、演習場は畑地として開拓され、子者清水は生活用水に利用されました。子供達の遊び場でもありましたが、昭和30年代後半の習志野台団地の造成で住宅街となりました。地形は変わりましたが3丁目3番3号棟付近からこの辺りにありました。


川舟「こうりんぼう」と十二沢川

川舟「こうりんぼう」と十二沢川
 
この地は、昭和初期まで十二沢川と魚野川の合流地点でした。
 左の写真は、当時の合流点付近の写真で昔の川辺の状況とこうりんぼうの様子をうかがうことが出来ます。
 十二沢川の河川改修工事により、写真に映し出されている石垣が発見されました。記念として石垣の一部をここに復元します。平成21年5月









道元禅師示寂の地

道元禅師示寂の地
 この地は、曹洞宗の開祖道元禅師が生涯を閉じたところである。
 道元禅師は、正治2年(1200年)に京都で生まれ、比叡山で出家の後、建仁寺の栄西の門に入って禅を学び、貞応2年(1223年)に入宋した。帰国後、建仁寺に足をとどめたが、その後、深草に興聖寺(後に宇治に移る)を建て、教化活動を続けた。晩年にいたって、権勢逃れ、越前(福井県)の地に永平寺を創建し、釈迦正伝の仏法である坐禅の厳格な宋風を樹立した。
 建長5年(1253年)病の療養のために弟子懐奘を伴って上洛し、この地(下京区高辻通西洞院西入)にあった俗弟子寛念の屋敷に滞在し同年8月に54歳の生涯を閉じた。



2018-11-21

水戸弘道館

水戸弘道館 

江戸時代の総合大学 
国指定特別史跡 重要文化財

(茨城県営都市公園HPより)

沿革 
 旧水戸藩の藩校である弘道館は、徳川斉昭が推進した藩政改革の重要施設の一つとして開設された。
 
弘道館建学の精神
神儒一致 忠孝一致 文武一致 学問事業一致 治教一致

開学
仮開学 天保12年 1841年 8月1日
本開学 安政 4年 1857年 5月9日

藩士とその子弟が学んだ 入学年齢は15歳卒業はなし
学問と武芸の両方が重視された

多様な科目
学問では 儒学 礼儀 歴史 天文 数学 地図 和歌 音楽など
武芸では 剣術 槍  柔術 兵学 鉄砲 馬術 水泳など

幕末の動乱を経て 明治5年 1872年 の学制発布により閉鎖

幾度の戦火を免れた正門、正庁及び至善堂は、昭和39年 1964年 に国の重要文化財に指定された。

館内には、藩主が臨席して文武の大試験が行われた正庁の間や對試場がある。
徳川慶喜が幼いころに学び、大政奉還の後に恭順謹慎生活を送った至善堂がある。

厳冬の中いち早く咲く蝋梅や斉昭が愛した幾種もの梅、鮮黄色の小花を集めてつける山茱萸。斉昭夫人ゆかりの左近の桜。夏の日差しに映える百日紅」など、四季折々の美しい花や樹木と出会える。

ビデオ「弘道館探訪」へのリンク












2018-05-14

旧信越本線碓氷第3橋梁(めがね橋)





国指定重要文化財
碓氷峠鉄道施設
碓氷第3橋梁(めがね橋)
平成5年8月17日 指定


 高崎~横川間は明治18年(1885年)10月、軽井沢~直江津間は、21年にそれぞれ開業しましたが、碓氷線と呼ばれた横川~軽井沢間は、碓氷峠が急勾配のため、路線決定にに紆余曲折し、明治26年(1893年)4月開業となり、高崎~直江津間の全線が開業しました。

 横河~軽井沢間の11.2キロメートルは、千分の66.7という最急勾配のため、ドイツの山岳鉄道で実用化されていた、アブト(=アプト)式が採用され、昭和38年まで走り続けました。

 この碓氷線には、当時の土木技術の粋を集めて、26のトンネルと18の橋梁が造られましたが、なかでもこの碓氷第3橋梁は2百万個以上のレンガを使用した、国内でも最大のレンガ造アーチ橋です。

文化庁
安中市教育委員会




旧信越本線の碓氷第3アーチ
1.建設
  明治25年12月竣工
2.設計者
  イギリス人 パゥエル技師
  日本人   古川晴一技師
3.構造
  煉瓦造アーチ橋(径間数4、長さ87.7メートル)
4.建設してからのあゆみ
碓氷の峻険をこえるため。「ドイツ」の「ハルツ山鉄道」のアプト式を採用して横川、軽井沢間が明治24年から26年にかけて建設されました。
その、こう配は1000分の66.7という国鉄最急こう配です。これを昭和38年9月、速度改良のため新線の完成と同時に使用廃止になった構造物の中では最大のものです。すぐれた技術と芸術的な美しさは今なおその威容を残しております。ここに往時を偲ぶ記念物として、その業績を長くたたえたいものです。
昭和45年1月1日
高崎鉄道管理局
松井田町教育委員会