函館市青函連絡船記念館摩周丸
北海道と本州を隔てる津軽海峡にはかつて、青函連絡船が航行していました。(以下は函館市観光サイトへ)
札幌開拓の先駆者大友亀太郎は、 天保五年(一八三四)に現在の神奈川 県小田原市で生れた。二宮尊徳の門に学び「人の一生は金銀財宝に富めるにあらず。積善の道に如かず」を信念とした安政五年(一八五六)に渡道し、慶応二年(一八六六)には箱館奉行に蝦夷地開墾の計画書を提出するとともに 石狩地方開拓の命を受け、札幌市東区(旧・元村)に土地を選んで開墾し、札幌の街づくりの発端となった。明治二年(一八六九) これを開拓使に引き継き、翌三年 札幌を去った、亀太郎が掘った大友堀は、今日の創成川の基となって街の中心部を流れ続けている
昭和62年5月
制作者 農民彫刻家 松田与一
題字 札幌市長 板垣武四
大友栄太郎像建立実行委員会
委員長 清水利信
【財団法人北海道報徳社社長理事】
函館元町公園
「ペリー提督 来航時の足跡絵図」
「ペリー提督 来航時の足跡絵図」
1、黒船 ポーハタン号(当時 小嶋又次郎が描いたもの)
1854年5月17日(新暦)午前9時にアメリカの黒船艦隊2隻が箱館港に入港 その後更に3隻が入港した。
入港した艦船は旗艦 (1)ポーハタン号 2,500トン (2)ミシシッピー号 1,800トン (3)マセドニアン号 (4)サウザンプトン号 (5)バンダリア号
2、箱館における日米会談
1854年5月22日 午前11時よりペリー提督と松前藩家老・松前勘解由(かげゆ)との会談が沖之口役所(後の水上警察、西警察、現在の函館市臨海研究所)の近く、山田屋寿兵衛(じゅへえ)宅で始まる。
ペリーの要求とは、休息所とする家屋2, 3棟の借り入れ、遊歩区域の境界線を定めることなどであった。しかし、一家老の身分では決定権もなく押し問答が続いた。
3、箱館山からの眺望
箱館に着いたペリー艦隊一行は、早速当時の臥牛山(がぎゅうさん)(箱館山)に登り、各種の測量や調査を始め、海図の作成等を実施 箱館湾の出入港の安全を図る。
当時の箱館山山頂には観音像が建立されていたが、明治32年に当時の軍部が函館山を要塞化するため、指示により山頂より降ろされ称名寺湯の川説教所(現在の湯川寺(とうせんじ))に収蔵され現在に至っている(称名寺:須藤隆仙氏談)。
4、姿見坂の一景
函館の姿見坂(現在の函館市弁天町13番付近)から見た風景である。これは、ペリー艦隊に乗り組んでいた従軍画家ハイネが描いたもの。
ペリー提督一行が当時の箱館を市中見学した際、実行寺、称名寺、浄玄寺、当時の八幡社(現在の函館八幡宮)を訪ねたことが判明っされている
5、称名寺の境内
これも当時ペリーが箱館市中を散策しているときに、称名寺の境内の一角で日米交流をしているときの光景を描いたものである。(須藤隆仙氏、談)
函館ロータリークラブ
創立75周年記念事業
平成21年10月24日建立
函館ロータリークラブ 会長 柴田繁男
日光 神橋付近
2022年11月17日 撮影
板垣退助像が神橋の傍らより東照宮を望むように立っている。
板垣退助は、「板垣死すとも自由は死せず」の名言で知られる明治の政治家です。
明治の初期に自由民権運動を展開し、自由党を編成。土佐(高知)出身。明治元年(1868) 戊辰戦争の時、彼は新政府軍の将として、日光廟に立てこもった大鳥圭介らの旧幕府軍を説得し、社寺を兵火から守ったと言われます。
その遺徳を讃え昭和4年に建設されたが最初の像は第二次大戦中に軍需に徴収された。昭和42年に再建。彫刻家、新関国臣の作。