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2022-11-20

板垣退助像  日光神橋の傍らより東照宮を望むように立っている

 日光 神橋付近

2022年11月17日 撮影

板垣退助像が神橋の傍らより東照宮を望むように立っている。

明治戊辰ノ役、板垣退助先生年万サニ三十二 土佐藩軍に将として東山道先鋒總督府参謀ヲ兼ネ 将二大鳥圭介等ノ卒ユル傅習隊ト今市ノ野二會戰セントス時二傅習隊日光ノ嶮二拠リ勢威大に振フ 先生兵焚ノ神廟二及フヲ憂ヒ日光山末寺飯塚台林寺ノ僧厳亮ヲ召シ大義ヲ傅習隊ニ説テ山ヲ下リ戦フベキ旨を諭セリ 僧死ヲ決シて遂ニ命ノ如クス 後土佐藩軍監谷干城モ亦輪王寺ノ衆徒櫻本院道純安居院慈立ノ二僧ト會シ首将ノ旨ヲ傅フ 敵軍遂ニ營ヲ撤シ退テ六峰越ニ據ル日光山ノ勝區䏻ク兵焚ヲ免ルヲ得タルハ 實ニ先生ノ賜ナリ 日光町深ク功徳ヲ追慕シ 率先シテ銅像建設ヲ謀ル 大方ノ有志競フテ其擧ヲ助ケ爰ニ工ヲ竣ヘ式ヲ行フ 實ニ昭和四年十二月ナリ 是ニ於テ先生ノ風貌軍装倶ニ颯爽トシテ當年ノ英姿ヲ活現セシム 即チ事ノ梗概ヲ記シテ天下後世ニ諗クト云
題字 公爵 徳川家達 (小林注 像の台座の題字)
撰文 滄溟宇田朋猪 (小林注 道路近くにある青銅碑文)
原型 白雲本山辰吉

 板垣退助は、「板垣死すとも自由は死せず」の名言で知られる明治の政治家です。
 明治の初期に自由民権運動を展開し、自由党を編成。土佐(高知)出身。明治元年(1868) 戊辰戦争の時、彼は新政府軍の将として、日光廟に立てこもった大鳥圭介らの旧幕府軍を説得し、社寺を兵火から守ったと言われます。
 その遺徳を讃え昭和4年に建設されたが最初の像は第二次大戦中に軍需に徴収された。昭和42年に再建。彫刻家、新関国臣の作。


2019-04-09

川舟「こうりんぼう」と十二沢川

川舟「こうりんぼう」と十二沢川
 
この地は、昭和初期まで十二沢川と魚野川の合流地点でした。
 左の写真は、当時の合流点付近の写真で昔の川辺の状況とこうりんぼうの様子をうかがうことが出来ます。
 十二沢川の河川改修工事により、写真に映し出されている石垣が発見されました。記念として石垣の一部をここに復元します。平成21年5月









道元禅師示寂の地

道元禅師示寂の地
 この地は、曹洞宗の開祖道元禅師が生涯を閉じたところである。
 道元禅師は、正治2年(1200年)に京都で生まれ、比叡山で出家の後、建仁寺の栄西の門に入って禅を学び、貞応2年(1223年)に入宋した。帰国後、建仁寺に足をとどめたが、その後、深草に興聖寺(後に宇治に移る)を建て、教化活動を続けた。晩年にいたって、権勢逃れ、越前(福井県)の地に永平寺を創建し、釈迦正伝の仏法である坐禅の厳格な宋風を樹立した。
 建長5年(1253年)病の療養のために弟子懐奘を伴って上洛し、この地(下京区高辻通西洞院西入)にあった俗弟子寛念の屋敷に滞在し同年8月に54歳の生涯を閉じた。



2018-05-14

旧信越本線碓氷第3橋梁(めがね橋)





国指定重要文化財
碓氷峠鉄道施設
碓氷第3橋梁(めがね橋)
平成5年8月17日 指定


 高崎~横川間は明治18年(1885年)10月、軽井沢~直江津間は、21年にそれぞれ開業しましたが、碓氷線と呼ばれた横川~軽井沢間は、碓氷峠が急勾配のため、路線決定にに紆余曲折し、明治26年(1893年)4月開業となり、高崎~直江津間の全線が開業しました。

 横河~軽井沢間の11.2キロメートルは、千分の66.7という最急勾配のため、ドイツの山岳鉄道で実用化されていた、アブト(=アプト)式が採用され、昭和38年まで走り続けました。

 この碓氷線には、当時の土木技術の粋を集めて、26のトンネルと18の橋梁が造られましたが、なかでもこの碓氷第3橋梁は2百万個以上のレンガを使用した、国内でも最大のレンガ造アーチ橋です。

文化庁
安中市教育委員会




旧信越本線の碓氷第3アーチ
1.建設
  明治25年12月竣工
2.設計者
  イギリス人 パゥエル技師
  日本人   古川晴一技師
3.構造
  煉瓦造アーチ橋(径間数4、長さ87.7メートル)
4.建設してからのあゆみ
碓氷の峻険をこえるため。「ドイツ」の「ハルツ山鉄道」のアプト式を採用して横川、軽井沢間が明治24年から26年にかけて建設されました。
その、こう配は1000分の66.7という国鉄最急こう配です。これを昭和38年9月、速度改良のため新線の完成と同時に使用廃止になった構造物の中では最大のものです。すぐれた技術と芸術的な美しさは今なおその威容を残しております。ここに往時を偲ぶ記念物として、その業績を長くたたえたいものです。
昭和45年1月1日
高崎鉄道管理局
松井田町教育委員会









2018-04-25

碓日嶺鐡道碑(復元模造)

碓日嶺鐡道碑(復元模造)


軽井沢駅舎脇にある碓日嶺鐡道碑(復元模造)

陸軍大将従二位勲一等伯爵山県有朋 篆額
従四位勲四等文学博士 重野安繹 撰文


この石碑の由来については、「碓氷峠に鉄道の復活を主張するホームページ」に詳しくあるのでそちらを是非ご覧ください。

石碑についての直接リンクはこちら「碓日嶺鉄道碑

碓氷線の建設については「碓氷線の廃墟に眠る鐡道碑」に詳しい説明があります。碑文の解読も。


碓氷峠鉄道文化むらに展示されている拓本の複写
破損前の現物からの拓本でしょうか。

草軽電鉄電気機関車

草軽電鉄電気機関車

 この機関車はデキ12型機関車といいアメリカのジェフェリー社で大正9年に製作したハンドブレーキ常用、非常用電気ブレーキ付きという鉱山用のトロッコを改造したのもである。

 大正4年7月より草軽軽便鉄道営業を開始、大正15年軽井沢~草津間(55.5キロ)の電化が完成してから、昭和37年1月31日路線を廃止するまでの約35年の間、地元民の足として、また、旅行者・避暑客の良き案内人として親しまれた電気機関車である。

 南側の一対の車輪は、同機関車が牽引した客車の車輪である。

軽井沢町
軽井沢町教育委員会
軽井沢町文化財審議委員会





 






2018-04-08

善光寺日本忠霊殿

善光寺日本忠霊殿






善光寺日本忠霊殿造営の由来
奉祀の霊240万柱

善光寺日本忠霊殿は戊辰の役(明治元年ー1868年ー)以降太平洋戦争に至る間 国難に殉じた240万の忠霊を奉祀(ほうし)(おまつり)する わが国ただ一つの仏式による霊廟(れいびょう)(おたまや)であり 明治39年(1906年)の創建に成ります。
たまたま日支事変 太平洋戦争における殉国の将兵100万余柱の遺骨遺髪など「おかたみ」を勧請(かんじょう)(おむかえ)したのを機縁(きえん)に 新たに永世不朽(えいせいふきゅう)の殿堂を建立することに財団法人善光寺日本忠霊殿造営奉賛会を結成 浄財を全国に求めました
趣旨に賛して寄進する有志都鄙(とひ)を蔽(おう)うて余さず 造営の工程も順調に進んで昭和45年3月(1970年)廟塔(びょうとう)を落成し 240万の忠霊安らかにここに鎮まりました。

平和祈願の霊廟
本尊は阿弥陀如来

善光寺日本忠霊殿は 善光寺の本尊一光三尊仏(いっこうさんぞんぶつ)=阿弥陀如来(あみだにょらい) 観世音菩薩(かんぜおんぼさつ) 勢至菩薩(せいしぼさつ)=請来(しょうらい)(おむかえ)して本尊と定めました
年祖国に殉じ 人類永遠の平和の礎(いしずえ)と化した精忠(せいちゅう)赫々(かくかく)の霊魂(みたま)は 仏のみちびきによってこの霊廟に鎮まり阿弥陀如来の慈悲のみ光のもと 永久(とわ)に国家民生の安泰をお護りするのであります
敬仰追慕(けいぎょうついぼ)して忠霊の冥福を念じ 祖国万邦の和平繁栄を冀(こいねが)い併せて一家同胞(はらから)の息災延命(さわりなき)をお祈りいたしましょう

昭和45年4月吉日



善光寺日本忠霊殿
戊辰戦争(ママ)から第二次世界大戦(ママ)までの戦争で亡くなった、約
万柱の英霊を祀る仏式霊廟です。明治39年(1906年)に創建され、昭和45年(1970年)に現在の姿に改築されました。1階には善光寺ゆかりの宝物を展示する「善光寺資料館」が併設されています。


2016-10-24

備後護国神社内の「宮本武蔵腰掛石の由来」

備後護国神社内の「宮本武蔵腰掛石の由来」




 元和元年(1615年)大阪夏の陣において、武蔵は、三河刈谷三万石城主水野日向守勝成の陣に属し参陣する。寛永年中(1624年から1629年)武蔵は福山城に勝成を訪う。武蔵の養子三木之助は水野家中、中川志摩之助の三男なり。水野家二番家老中山将監は、大阪陣中におけるよしみにより、武蔵を自邸において饗應。その時、武蔵が将監屋敷庭園の庭石に腰を掛けたのが、武蔵腰掛石として伝承されていた。

 水野氏断絶改易となり、阿部氏入封、それ以後将監屋敷は、阿部家第二家老下宮氏の屋敷となる。明治4年廃藩後、下宮氏はこの屋敷を引き拂うにあたり、この石の由緒によりこれを阿部神社に寄進したものである。

原文 平井隆夫 鷹の羽会





備後護国神社 阿部神社

備後護国神社 御由緒 御神徳

 当神社は、昭和32年まで阿部神社と称えていましたが、国家のために殉じられた御英霊を合祀した備後護国神社と合併して、社名を備後護国神社と改め、阿部神社の社名はなくなりました。

 阿部神社の建立は、文化10年(西暦1813年)に時の福山藩主が、歴代の祖霊を祀ったのがはじまりです。
 
 御祭神は、大彦命、武沼河別命(二柱とも四道将軍)を始め歴代藩主をお祀りしてあります。

 御神徳は、御祭神の御功績によるもので、大彦命の開拓・平定による開運・家内安全・健康・厄除等です。

 歴代の中で特に阿部正弘公は、老中筆頭として国旗(日の丸)を制定され、嘉永6年(西暦1853年)ペリー来航に当たり和親条約を締結し、日本の開国と、福山に誠之館を創設して、近代教育の基礎をつくられた教育の神様で、天満宮と並び尊ばれ、受験合格・学業成就の神として信仰されています。

例祭日
備後護国神社 10月23日
阿部神社 勇鷹祭 5月19日

広島県福山市丸之内1丁目9−2 備後護国神社





阿部正弘公石像潜り

正弘公は天保14年(1843年)25歳にして江戸幕府老中、今の大臣になり教育に力を注ぎ嘉永5年(1852年)老中筆頭、今の総理大臣に就き江戸と福山に誠之館を建てる。安政元年(1854年)日米、日英、日露の和親条約を結び開国し、近代文明国、日本の基礎を作る。また、学問のできる人材を広く重用して教育の重要性を高揚し、日の丸を日本の国旗と制定した人でもあります。阿部家11代、福山城主7代目の正弘公は、当神社の御祭神であり、希望学校の合格、就職の御祈祷を受けられ、石像を潜り希望をかなえてください。


2015-09-11

松浦武四郎翁の像

松浦武四郎翁の像

 北海道の名付け親 松浦武四郎翁は、 文政元年(1818)伊勢国川村(現 三重県三雲町)に代々郷士であった松浦家の四子として生まれる。

 翁は27歳の春、蝦夷地探検を発起以来6度に渡り蝦夷地を案内のアイヌの人々と踏査し、詳細で実情をあますところなく書き記された地図・絵図・記録は高く評価され、探検家・研究者として、その功績は偉大である。

 翁の身長は4尺8寸(1m45cm)、足の大きさは24cmと小柄ながら、その旺盛な精力と知識欲により未開の荒野を踏査・探検し、当地へも4度に渡って訪れ、鰊漁場の賑わいをきわめた往時の鬼鹿の歴史を詩に残している。

 松浦武四郎は、社会科学史上・文化史上に輝く燦然たる偉人であるとともに北海道の史実を証するものとして、今もなお道民の心のなかに生き続けている。


名にも似ず すがたやさしき女郎花 なまめき立てる おにしかの里   松浦武四郎




鬼鹿
小平鰊番屋 鰊文化歴史公園








三船遭難慰霊の碑

三船遭難慰霊の碑

碑文
昭和20年8月15日 太平洋戦争(ママ)終わる終戦後7日 昭和20年8月22日早暁の海は波穏やかにして 微風甲板を渡る
この日 泰東丸 第二新興丸 小笠原丸の三船は戦乱の樺太より緊急引揚の老幼婦女子乗組員 5,082名を乗せ鬼鹿沖にさしかかりしが突如旧ソ連軍の潜水艦による雷攻撃に遭い瞬時にして沈没或いは大破し 1,708名の尊き命を奪わる
留別の地樺太を脱し数刻夢に描きし故山を目睫にしてこの惨禍に遭う悲惨の極みなり
星霜ここに30年我等同胞慟哭の海に向かい霊鎮まらんことを祈りつつこの碑を建つ

昭和50年8月22日
樺太引揚三船遭難慰霊碑建立合同委員会






稚内港北防波堤ドーム

稚内港北防波堤ドームの由来

この防波堤は戦前 稚内~樺太との定期船発着所として築設されてもので、アーチ型構造物として立案され 昭和6年に着工し昭和11年に完成したのもであるが 激浪のため老朽が進み 昭和53年より改良施工し 完成は昭和55年である この構造物の名称は古代ローマの柱廊を思わせる独特の外観から通称「ドーム」と呼ばれ世界で唯一のものである

土木学会選奨土木遺産 2003 稚内港北防波堤ドーム