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2024-10-30

はなし塚

はなし塚
台東区寿二丁目九番七号 本法寺





本法寺

 はなし塚

台東区寿二丁目九番七号 本法寺

 この塚が建立された昭和十六年十月、当時国は太平洋戦 争へと向かう戦時下にあり、各種芸能団体は、演題種目に ついて自粛を強いられていた。落語界では、演題を甲乙丙 丁の四種に分類し、丁種には時局にあわないものとして花柳界、酒、妾に関する噺、廓噺等五十三種を選び、禁演落語 として発表、自粛の姿勢を示した。この中には江戸文芸の名作といわれた『明烏』『五人廻し』『木乃伊取』等を含み、高座から聴けなくなった。

 「はなし塚」は、これら名作と落語界先輩の霊を弔うた め、当時の講談落語協会、小咄を作る会、落語講談家一同、 落語定席席主が建立したもので、塚には禁演となった落語 の台本等が納められた。

 戦後の昭和二十一年九月、塚の前で禁演落語復活祭が行われ、それまで納められていたものに替えて、戦時中の台本などが納められた。

平成十六年三月

台東区教育委員会

2024-10-29

函館市青函連絡船記念館摩周丸

 函館市青函連絡船記念館摩周丸

北海道と本州を隔てる津軽海峡にはかつて、青函連絡船が航行していました。(以下は函館市観光サイトへ)





津軽丸 大錨(左)  D51種動輪(中央)  大雪丸 大錨(右)



2024-10-28

北海道第一歩の地碑

北海道第一歩の地




北海道第一歩の地

 明治維新後函館は 名実共に北海道の門戸となった。そして北海道の地を踏む者がその第一歩を印したのはこの東浜桟橋である。

 後に若松町に鉄道桟橋 ができてからは旧桟橋と も呼ばれた。国道四号線 が認定されるや 北海道 の道路の基点として ここに道路元標が 建てられた。

 明治百年を迎えるに当たり 此地に記念碑をたてて 開拓に渡道した先人の足跡をしのぶ。

昭和四十三年十一月三日

寄贈 日本中央競馬会
碑文 阿部龍夫
設計 明石信道
彫刻 根本土龍
施工 大成建設式会社


 北海道第一歩の地碑

 明治維新後、函館は名実ともに北海道の門戸となり、この北海道の地を踏むものがその第一歩を印 したのが東浜桟橋(旧桟橋)である。

 青函航路は、明治6年(1873年)に開拓使の弘明丸によって一般輸送を開始し、明治12年(1879年)に三菱会社が開拓使から青函航路を譲り受け、以後、日本郵船鉄道会社などによって継続されてきたが、明治41年(1908年)に国有鉄道の航路として比羅夫丸、田村丸が就航した。

 当時、連絡船は沖に停泊し、客は艀舟でこの桟橋との間を行き来した。この東浜桟橋は、明治4年 (1871年)に作られた。

 連絡船の桟橋は、明治43年(1910年)2月に若松ふ頭に新設移転したが、その後もこの桟橋は活用 され、北洋漁業の拠点などとしても重要な役割を果たしてきたが、とくに戦前の北洋漁業の発着時には、 大変な賑わいをみせていた。平成30年度から架け替え工事を実施。

 この記念碑は、熊にいかりを配し、開道100年を記念して開拓に渡道した先人の足跡をしのぶと共に、 北海道発展の未来を志向して、昭和43年(1968年)9月に建立されたものである。

函館市


Modern Gateway to Hokkaido

 After the Meiji Restoration in 1868, Hakodate became the main entry point to Hokkaido; in fact people arriving on the island took their first steps here at Higashihama Pier.

 In 1873 the ship Komei-maru commenced the first regular transport service between Aomori and Hakodate. In 1879 the Mitsubishi company took over the operation and continued it under subsidiaries such as the Japan Postal Shipping and Rail Company. 

 In 1908 the Hirafu-maru and Tamura-maru entered service on the Aomori-Hakodate run as part of the Japanese

 National Railways network. In the time before the harbour was dredged, ferries anchored off the port and passengers were transferred to and fro by lighters. This pier was built in 1871.

 After ferries began using Wakamatsu wharf in February 1910, this pier came to play an important role as a base for the northern sea fishery, and was particularly busy servicing arriving and departing ships during the time before World War II. 

 This monument, with its bear and anchor, was built in September 1968 to commemorate the centenary of the arrival of people who came to develop Hokkaido, and also for its future development.

CITY OF HAKODATE


https://photos.app.goo.gl/R7svE2YtRpPdnDqV9



日本最古のコンクリート電柱





日本最古のコンクリート電柱

 この電柱は、大正12年(1923年)10月、当時の函館水電会社(現北海道電力)が建てたもので、日本 最古のコンクリート電柱である。

 高さ10メートルのこの電柱は、現場打ち工法で、底辺が47センチメートル四方、上辺が19.5センチメートル四方の鉄筋コンクリート造りで、角錐形という珍しいものである。 
 火災が頻繁に発生した当時の函館では、この頃から耐火建築が増えはじめたが、この電柱もそのあ らわれであり、木柱が普通であった当時から今日まで、耐用年数を越えてもなお現役として街の移り 変わりを見守っている。

 また、後に同形の電柱(昭和46年に撤去し、平成8年に再建)が建物をはさんで建てられたため、 「夫婦電柱」と呼ばれて市民の話題となった。 

函館市

Japan's First Concrete Electricity Pole

 This innocuous reinforced concrete pole was erected by Hokkaido's electricity company in October 1923. Ten metres tall, it is 47 cm wide at the base and tapers to 19.5 cm wide at the top.

 In the early 20th century fire caused great loss of life and property in Hakodate. In response to this, concrete came to be recognised as a practical alternative to wood and was used in the city. The Higashi Honganji Temple in Motomachi is a notable example; this electricity pole is another.

 You may have noticed that there is a similar pole on the corner to your left, which was reinstated in 1996 after having been relieved of its duties in 1971. They are often lightheardedly referred to as a married couple. 
 
This pole has been here since the days when wooden electricity poles were the norm, and even though it has surpassed its expected service life, it now also stands as a point of reference for change in the city.

CITY OF HAKODATE




 


移設されてきたもう一本の電柱

2024-10-27

ペリー提督 函館来航関係碑

函館 ペリー提督来航記念碑



ペリー提督来航記念碑

 日本と和親条約を締結したアメリカ海軍提督M.C.ペリーは、1854年(安政元年)5月17日、開港される箱館港を下検分するため、5隻の艦船を率いて来航した。
 滞在中には、箱館湾の海図を作成したほか、銀板写真術(ダゲレオタイプ)の初公開、西洋音楽の吹奏などを行い、当時の人々の驚きの様子が記録として残っている。
 このペリー来航が契機となり、蝦夷地(北海道)を統治する箱館奉行所の移転先として五稜郭が築造されることになったほか、開港場として欧米文化の影響を受け、本市が国際観光都市として発展する礎となった。

 黒船来航150周年(2004年)を目前に、日米和親の意を後世に伝え、ペリー提督を末永く顕彰するため、ここ函館の由緒ある地に「ペリー提督来航記念碑」を建立する。
2002年(平成14年)5月17日

ペリー提督来航記念碑建立協議会

Memorial Statue of the Visit of Commodore Matthew C.Perry to Hakodate

 Having concluded the peace and amity treaty,Commodor Matthew C.Perry of the U.S. Navy visited Hakodate on May 17,1854 with his squadron of five ships.The purpose was to survey Port Hakodate,which was to open under the treaty.Besides making a chart of Hakodate harbor, he surprised Hakodate people by introducing daguerreotype and performing Western music during his stay.The reactions of the people in those days are kept on record to this day.
 With the visit of Commodore Perry as a momentum,a star-shaped citadel “Goryokaku” was built as a new office for the Hakodate Magistrate’ s office to administer Ezochi (then Hokkaido).As an international trade port Hakodate was greatly influenced by Western culture,and this fact laid the foundation for Hakodate as an international tourism city today.

City of Hakodate

On the eve of the 150th anniversary (in 2004) of the visit of the black ships,we establish on this commemorative site the memorial statue of the visit of Commodore Matthew C.Perry to Hakodate.This is to honor his exploits and to bequeath the essence of the peace and amity to future generations.
May 17,2002

Committee for the Establishment of the Memorial Statue of the Visit of Commodore Matthew C.Perry to Hakodate

函館元町公園 


 「ペリー提督 来航時の足跡絵図」










 「ペリー提督 来航時の足跡絵図」

1、黒船 ポーハタン号(当時 小嶋又次郎が描いたもの)

1854年5月17日(新暦)午前9時にアメリカの黒船艦隊2隻が箱館港に入港 その後更に3隻が入港した。

入港した艦船は旗艦 (1)ポーハタン号 2,500トン  (2)ミシシッピー号 1,800トン  (3)マセドニアン号  (4)サウザンプトン号  (5)バンダリア号

2、箱館における日米会談

1854年5月22日 午前11時よりペリー提督と松前藩家老・松前勘解由(かげゆ)との会談が沖之口役所(後の水上警察、西警察、現在の函館市臨海研究所)の近く、山田屋寿兵衛(じゅへえ)宅で始まる。

ペリーの要求とは、休息所とする家屋2, 3棟の借り入れ、遊歩区域の境界線を定めることなどであった。しかし、一家老の身分では決定権もなく押し問答が続いた。

3、箱館山からの眺望

箱館に着いたペリー艦隊一行は、早速当時の臥牛山(がぎゅうさん)(箱館山)に登り、各種の測量や調査を始め、海図の作成等を実施 箱館湾の出入港の安全を図る。

当時の箱館山山頂には観音像が建立されていたが、明治32年に当時の軍部が函館山を要塞化するため、指示により山頂より降ろされ称名寺湯の川説教所(現在の湯川寺(とうせんじ))に収蔵され現在に至っている(称名寺:須藤隆仙氏談)。

4、姿見坂の一景

函館の姿見坂(現在の函館市弁天町13番付近)から見た風景である。これは、ペリー艦隊に乗り組んでいた従軍画家ハイネが描いたもの。

ペリー提督一行が当時の箱館を市中見学した際、実行寺、称名寺、浄玄寺、当時の八幡社(現在の函館八幡宮)を訪ねたことが判明っされている

5、称名寺の境内

これも当時ペリーが箱館市中を散策しているときに、称名寺の境内の一角で日米交流をしているときの光景を描いたものである。(須藤隆仙氏、談)


函館ロータリークラブ
創立75周年記念事業
平成21年10月24日建立
函館ロータリークラブ 会長 柴田繁男


2022-11-20

会津若松鶴ヶ城

 会津若松鶴ヶ城

令和4年(2022)1月20日撮影

北方監視の役目を担っていた会津藩が、なにゆえ京都守護職を受けなければならなかったのか。さらに戊辰の役で西軍から朝敵とされて後、恭順の意を示すも徹底攻撃され壊滅させられた。会津藩はその後新政府の懲罰的な命により、斗南藩として下北に移封。不毛極寒の痩地で、いかに誇り高い会津藩士とて、生きることができずに多くの命が失われた。

しかし、会津人の素晴らしさは、そのような境遇にありながら、その後の日本を支える人材を多く出したことにもある。



お台場 築いたのは、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門

お台場 築いたのは、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門
(2020年1月16日撮影)

幕府の命を受けこのお台場を築いたのは、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門です。
江川太郎左衛門は江戸時代末期の人です。
その時代にあって、その後の日本に多くのものを残しました。
このお台場建設のほか、同じく国指定史跡の韮山反射炉。これは産業遺構として世界遺産に登録されました。
その他のことは、こちらで。
ひらめきと感動の世界へのリンク。
「江川英龍 日本を守った知られざる英雄」

https://youtu.be/yfGDZvu_GAU



都立台場公園のあらまし 台場公園 (第三台場)



「お台場」の名で知られる品川台場は、江戸幕府が黒船来襲にそなえて品川沖に築いた 砲台跡です。設計者は伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍で、ベリーが浦賀に来航し た翌月の嘉永六年(一八五三年) 八月に着工、年三ヶ月の間に六基が完成しました。 現在は大正十五年(一九二六年)に国の史跡に指定された第三、第六台場だけが残されています。 このうち第三台場は、昭和三年東京市(都)によって整備され、台場公園として解放 されています。 周囲には、海面から五~七メートルの石垣積みの土手が築かれ、黒松が植えられています。 また内側の平坦なくぼ地には、陣屋、弾薬庫跡などがあります。

史跡指定 大正15年12月20日 (外周30間 約55m〉 の海面を含む



法隆寺 夢殿 救世観音御開帳

 法隆寺 夢殿 救世観音御開帳

10月30日 撮影

夢殿 (奈良時代 国宝)
Hall of Dreams (Yumedono)


宝珠が印象的な八角円堂で東院の本堂である。天平時代の創建で、鎌倉時代の寛喜2年 (1230) に高さや軒の出、組み物などが大きく改造された。軽やかでかつ安定した外観は、法隆寺の数ある建造物のなかでもひときわ美しい。また夢殿の名称は、聖徳太子の夢の中に現れた金人の伝説に由来する。八角形の堂宇は供養堂として建てられたものが多く、夢殿も例外ではない。この場所は聖徳太子が住んでおられた斑鳩宮の跡地で、朝廷からの信任も厚い学僧であった行信僧都は、その荒廃ぶりを嘆き、太子と一族の供養のために伽藍の建 立を発願し、天平11年 (739) に夢殿を造営した。堂内には、聖徳太子の等身像 と伝える救世観音像のほか、行信僧都坐像、平安時代に東院を復興した道詮 律師坐像などが安置されている。

The octagonal Yumedono, or Hall of Dreams, is one of Horyuji Temple's most impressive buildings. The scholar-priest Gyoshin Sozu commissioned its construction in 739 as a monument to Shotoku Taishi. The building was constructed on the site of the prince's private palace, where he lived until his death in 622. The Hall of Dreams derives its name from a legend that a golden Buddha once appeared to Shotoku Taishi in a dream.

A shining jewel sits atop the roof in the shape of a reliquary. Japan adopted the construction of octagonal wooden halls for use as memorial chapels and the Hall of Dreams is one such example. Memorial services honoring Shotoku Taishi are held in the building, which houses the Kuse Kannon, a statue built in the likeness of Shotoku Taishi and considered to be a masterpiece of seventh-century Buddhist art. The Kuse Kannon is believed to have the power to save people from suffering. Other important statues in the hall are a Nara period (710-794) dry-lacquer statue of the priest Gyoshin Sozu and a Heian period (794-1185) clay statue of the Dosen Risshi, a priest who renovated the Hall of Dreams during the Heian period.




2022-04-24

旧新橋停車場

旧新橋停車場 駅舎玄関遺構 ゼロマイル標識 プラットホーム 創業時の線路



駅舎玄関遺構

ここに残されているのは、正面玄関の階段の最下段として使われていた切石です。正面玄関の階段は9段あったこと が、当時の写真から分かっています。

2019-04-09

川舟「こうりんぼう」と十二沢川

川舟「こうりんぼう」と十二沢川
 
この地は、昭和初期まで十二沢川と魚野川の合流地点でした。
 左の写真は、当時の合流点付近の写真で昔の川辺の状況とこうりんぼうの様子をうかがうことが出来ます。
 十二沢川の河川改修工事により、写真に映し出されている石垣が発見されました。記念として石垣の一部をここに復元します。平成21年5月









2018-11-21

水戸弘道館

水戸弘道館 

江戸時代の総合大学 
国指定特別史跡 重要文化財

(茨城県営都市公園HPより)

沿革 
 旧水戸藩の藩校である弘道館は、徳川斉昭が推進した藩政改革の重要施設の一つとして開設された。
 
弘道館建学の精神
神儒一致 忠孝一致 文武一致 学問事業一致 治教一致

開学
仮開学 天保12年 1841年 8月1日
本開学 安政 4年 1857年 5月9日

藩士とその子弟が学んだ 入学年齢は15歳卒業はなし
学問と武芸の両方が重視された

多様な科目
学問では 儒学 礼儀 歴史 天文 数学 地図 和歌 音楽など
武芸では 剣術 槍  柔術 兵学 鉄砲 馬術 水泳など

幕末の動乱を経て 明治5年 1872年 の学制発布により閉鎖

幾度の戦火を免れた正門、正庁及び至善堂は、昭和39年 1964年 に国の重要文化財に指定された。

館内には、藩主が臨席して文武の大試験が行われた正庁の間や對試場がある。
徳川慶喜が幼いころに学び、大政奉還の後に恭順謹慎生活を送った至善堂がある。

厳冬の中いち早く咲く蝋梅や斉昭が愛した幾種もの梅、鮮黄色の小花を集めてつける山茱萸。斉昭夫人ゆかりの左近の桜。夏の日差しに映える百日紅」など、四季折々の美しい花や樹木と出会える。

ビデオ「弘道館探訪」へのリンク












2018-05-14

旧信越本線碓氷第3橋梁(めがね橋)





国指定重要文化財
碓氷峠鉄道施設
碓氷第3橋梁(めがね橋)
平成5年8月17日 指定


 高崎~横川間は明治18年(1885年)10月、軽井沢~直江津間は、21年にそれぞれ開業しましたが、碓氷線と呼ばれた横川~軽井沢間は、碓氷峠が急勾配のため、路線決定にに紆余曲折し、明治26年(1893年)4月開業となり、高崎~直江津間の全線が開業しました。

 横河~軽井沢間の11.2キロメートルは、千分の66.7という最急勾配のため、ドイツの山岳鉄道で実用化されていた、アブト(=アプト)式が採用され、昭和38年まで走り続けました。

 この碓氷線には、当時の土木技術の粋を集めて、26のトンネルと18の橋梁が造られましたが、なかでもこの碓氷第3橋梁は2百万個以上のレンガを使用した、国内でも最大のレンガ造アーチ橋です。

文化庁
安中市教育委員会




旧信越本線の碓氷第3アーチ
1.建設
  明治25年12月竣工
2.設計者
  イギリス人 パゥエル技師
  日本人   古川晴一技師
3.構造
  煉瓦造アーチ橋(径間数4、長さ87.7メートル)
4.建設してからのあゆみ
碓氷の峻険をこえるため。「ドイツ」の「ハルツ山鉄道」のアプト式を採用して横川、軽井沢間が明治24年から26年にかけて建設されました。
その、こう配は1000分の66.7という国鉄最急こう配です。これを昭和38年9月、速度改良のため新線の完成と同時に使用廃止になった構造物の中では最大のものです。すぐれた技術と芸術的な美しさは今なおその威容を残しております。ここに往時を偲ぶ記念物として、その業績を長くたたえたいものです。
昭和45年1月1日
高崎鉄道管理局
松井田町教育委員会