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2018-04-25

草軽電鉄電気機関車

草軽電鉄電気機関車

 この機関車はデキ12型機関車といいアメリカのジェフェリー社で大正9年に製作したハンドブレーキ常用、非常用電気ブレーキ付きという鉱山用のトロッコを改造したのもである。

 大正4年7月より草軽軽便鉄道営業を開始、大正15年軽井沢~草津間(55.5キロ)の電化が完成してから、昭和37年1月31日路線を廃止するまでの約35年の間、地元民の足として、また、旅行者・避暑客の良き案内人として親しまれた電気機関車である。

 南側の一対の車輪は、同機関車が牽引した客車の車輪である。

軽井沢町
軽井沢町教育委員会
軽井沢町文化財審議委員会





 






2016-01-18

有元 史郎 芝浦工業大学 創立者

有元 史郎 芝浦工業大学 創立者

1896年(明治29年)6月25日
 広島県尾道市土堂町に有元家の四男として生まれる

1925年(大正14年)3月    
 東京帝国大学工学部機械工学科卒業
 北村芳子と結婚(2男4女をもうける)
 この後、同大学経済学部と法学部、日本大学商科と文科を続けて修了し、5学士号を得る

1927年(昭和2年)
 芝浦工業大学の前身である東京高等工商学校を開設

1938年(昭和13年)5月30日
 逝去 (享年43)

 芝浦工業大学の創立者、有元史郎先生は弱冠30歳の時に、日本の工業技術興隆に必要とされた「実用的な技術と知識を併せ持つ技術者の育成」を目的として、東京高等工商学校を開設し、実学主義の教育を始められました。

 以来、芝浦工業大学は教育・研究活動を通じて多くの技術者・研究者を輩出し、工業技術の発展に貢献して、確固たる礎をきずいています。

 この有本史郎先生の功績に敬意を評し、2009年3月芝浦後者完成を記念して本胸像は制作されました。

 なお本胸像の台座は1935年、芝浦校舎旧館の施工を請け負った戸田建設の前身である戸田組の社長、二代戸田利兵衛氏が新築記念として寄贈した際のもので、台座上部が失われていた状態で旧本館に残されていました。この台座は当時の石職人が稲田石を丹精込めて削り出し、有本史郎先生のお名前を彫り込んだものでした。

 そこで芝浦工業大学の歴史を継承する想いを込めて、胸像の台座として使用しました。

製作者 瀬戸 剛 (GO SETO)
寄贈 戸田建設株式会社(胸像 2009年佳節)
    戸田組       (台座 1935年佳節





2015-05-03

西武池袋線中村橋駅 古レールの記念保存

西武池袋線中村橋駅 古レールの記念保存

OH TENNESSEE-6040-ASCE-I-1924
アメリカのテネシー社製。
1924年圧延。
「OH」は平炉(Open Heath)で精錬したことをあらわす。
「6040」は60ポンド、40は規格番号をあらわす。
「I-1924」は1924年1月圧延をあらわす。











KROLHUTA 1927 M I
ポーランド南部のクロレフスカ・フータ製鉄所製。
1927年圧延。
「M」はマルチン平炉をあらわす。
「I」は1月圧延をあらわす。



60 A 1928 IIIIIIII
官営の八幡製鐵所時代(1901年~1934年)に圧延。
「60A」は60ポンドを表し、Aはアメリカ土木技術協会(ASCE)規格であることをあらわす。
I の数で8月圧延をあらわす。










CARNEGIE 1914 ET I 45 A
アメリカのカーネギースチール社製。
1914年圧延。
「ET」は「エドガートムソン工場」で圧延されたことをあらわす。
「45A」は45ポンド数を表し、Aはアメリカ土木技術協会(ASCE)規格であることをあらわす。










H-W-60LBS ASCE-XI-1925
フランスのウエンデル社製。
1925年圧延。
「60LBS」は60ポンドレールをあらわす。
「ASCE」はアメリカ土木技術協会規格をあらわす。
「AI」は11月をあらわす。









MICHEVILLE I 1926 T.B.  A.S.C.E. 60 lbs
フランスのミッシュビル社製。
「I」は1月圧延をあらわす。
「T.B.」は製造法の種類をあらわす。
「A.S.C.E.」はアメリカ土木技術協会規格をあらわす。
「60」は60ポンドをあらわす。







G.H.H.1926
ドイツのブーテホフヌング・ヒュッテ製鉄所製。
1926年圧延。





2015-04-30

工学院大学学園發祥之地

工学院大学学園發祥之地

明治二十一年我国工業の黎明期に當り、此地に工手学校が創設された。爾来工業界の各分野に 有能な技術者を送った数は実に三萬を超えその発展に多大の貢献を致した事は周知である
関東大震災の後昭和三年出身者の熱意と努力により新宿に宏壮な校舎が建設され校名も工学院 と改められ、時世の進運に則して終始発展充実 を続けて来た。更に昭和二十四年に至り学園に 工学院大学が設立され最高の工業教育機関として工業報国の伝統精神を発揚しつゝある
近く創立七十周年を迎えんとし先輩の遺徳を偲 び後進の発奮を促すため有志相図り学園発祥の 地に記念碑を建てる

       工学院大学校友会
            題字 工学博士 桂 弁三 書
            碑文 工学博士 野口尚一 撰

 学園歌
  一 見よ 清浄の淀橋に
      校舎は高くそびえたり
    実力の旗ひるがえし
      我等が健児意気高し
    誠実努力撓みなく
      進めいそしめ国のため

  二 見よ先輩の螢雪は
      工業日本を築きたり
    築地の風に鍛えたる
      師兄の意気を受継ぎて
    誠実努力撓みなく
      進めいそしめ国のため






シーボルトの胸像

シーボルト (1796-1866)

 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、オランダの商館医員として文政6年(1823年)7月、長崎に到着し、診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなどして活躍した。

 同9年正月、商館長と共に江戸へ向かい、3月4日、日本橋の長崎屋に止宿し、4月12日出発するまでの間、江戸の蘭学者に面接し大きな影響を与えた。しかし、同11年シーボルト事件が発生し、12月に日本から追放された。後に安政6年(1859年)幕府顧問として再来日したが、間もなく帰国しミュンヘンで没した。

 彼の江戸における指導は、江戸蘭学発展のために貢献するところが大きかった。この地が江戸蘭学発祥の地であり、且つ彼が長崎で設けた娘いねが築地に産院を開業したこともあり、また明治初期から中期にかけてこの一体に外国人居留地が設けられていたことから、ここに彼の胸像を建て、日本への理解と日蘭の橋渡し役としての功績に報いるものである。

中央区教育委員会

Een Vorstbeeld de Siebold

 Aangeboden door de Universiteit  van Leiden in Nederland aan de Chuo Wijk in Tokyo. mede namens de Isaac Alrfred Ailion Foundation en in samenwerking met de Asahi Shinbun.

18 Juni 1988




 Presented to Chuo Ward, Tokyo, by Leiene University, the Netherlands, and the Isaac Alfred Ailion Foundation, in cooperation with Asahi Shinbun.

June 18th ,1988




この胸像は、オランダのダイデン大学とイサーク アルフレッド・エリオン財団から日蘭友好を目的として、朝日新聞社の尽力によって中央区に寄贈されました。

昭和63年6月18日