2014-12-09

道標 大山道(おおやまみち)

道標 大山道

大山道(おおやまみち)は、矢倉沢往還(やぐらざわおうかん)の俗称である。この道標は、旧大山道(代官屋敷前経由)と、文化・文政期ごろに開通したといわれる新大山道(桜新町経由)との分かれ道にあった石橋楼(三権茶屋の地名の起こりの茶屋の一つ)の角に建てられていた。

大山は、古い民俗信仰である石尊信仰と山岳仏教の信仰とが結合し、相模の修験道場として重きをなし、将軍をはじめ多くの人々に尊崇された。とくに文化・文政期以降は江戸町人などの大山詣りが盛んになり、その案内のため大山道沿道に多くの道標が建てられた。

この道標は、玉川電車の開通や、東京オリンピックの道路の拡幅などにより点々と移されたが、昭和58年5月に三軒茶屋町会結成50周年記念事業の一つとして、元の位置近くに復された。





2014-11-30

有楽大黒


有楽大黒


「有楽大黒の御縁起」


 この大黒様は大江戸の守護神である山王日枝神社の神木によって、大分出身の平野米一氏が昭和初年に謹彫され、当時駅前の「亀八」寿司の主人が秘蔵し、朝夕拝礼して居られました。

 第二次大戦の末期、空襲をさけて駅長に贈られ、やがて中央改札口に守護神として鎮座されましたが、このがび日枝神社宮司様の奉仕で鎮座式を執行し、当所に末永く祀られる事になりました。大黒様は古来、福徳円満諸願成就の神、特に飲食を司り、商売繁昌の神として信仰が厚く、ご通行の皆様の安全、幸福をお守りいただく霊験あらたかな神様です。

昭和56年 春 有楽町駅長





















2014-11-20

「放送記念碑」 わが国最初の放送電波が発せられたゆかりの地

(JR田町駅芝浦口)

「放送記念碑」

 ここは大正14年3月22日 わが国最初の放送電波が発せられたゆかりの地です。

 東京放送局が、当時ここにあった東京高等工芸学校の図書室を仮放送所としてラジオ第一声を送り出しました。

 この放送発祥の地に、放送開始30周年を記念して「放送記念碑」を建立したものです。

日本放送協会


--------------------------------------------------------

東京高等工芸学校の沿革

 本校は大正10年12月この地に創立されました。戦時下の昭和19年3月に東京工業専門学校と改称され、昭和20年5月戦災による校舎焼失のため、同年10月千葉県松戸市に移転いたしました。昭和24年5月学制改革により千葉大学工芸学部として発足し、同26年4月工学部に改組され、同39年7月千葉市に移転し今日に至っております。

 平成3年12月 創立70周年を記念し、こゝに沿革をかかげました。

平成4年7月吉日 千葉大学工学部 千葉大学工学同窓会







2014-11-14

「山門を 出れば日本ぞ 茶摘み歌」 菊舎 

山門を 出れば日本ぞ 茶摘み歌  
七十三齢 菊舎

黄檗山萬福寺にて


 一字庵田上菊舎は、宝暦3年(1753年)10月14日、現山口県下関市豊北町田耕に生まれた。16歳で近くの村田家に嫁いだものの、24歳のとき夫と死別。子供がいなかったため、実家に復籍。俳諧の道をこころざし、芭蕉を慕い、尼僧となって諸国行脚に明け暮れ一世を風靡した美濃派の俳人である。

 菊舎が萬福寺に初めて詣でたのは、寛政2年(1790年)3月、38歳のときで、

 見聞に耳目をおどろかしつゝ、黄檗山のうちを拝しめぐり、誠に唐土の心地し侍れば

 山門を出れば日本ぞ茶摘うた

と詠んでいる。

 黄檗山のたたずまいに酔いしれた菊舎が、三門を出た時、門前の茶畑からうたが聞こえ、一瞬我に返った時の句である。

 菊舎は、文政9年(1826年)8月23日、同市長府にて死去。享年74歳。

 句碑の銅板は第二次大戦中の金属供出により失われていたため、平成17年8月、菊舎顕彰会が復元したものである。








佐久間象山 大村益次郎 遭難の碑

佐久間象山 大村益次郎 遭難の碑

 佐久間象山は信州松代藩の出身で、儒学や朱子学を修め、西洋科学の導入で日本の殖産興国に尽力しました。彼の塾からは、勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬ら傑物を排出します。元治元年(1864年)に上洛し、開国論を唱えて公武合体に務めたため、同年7月11日に刺客に斬殺されました。

 大村益次郎は長州藩出身で、医学を梅田幽斎に学び、さらに緒方洪庵の適塾でも学んで兵学者となりました。長州藩の軍事指導者として活躍し、その功績から維新後、兵部大輔に任命され、近代兵制樹立に尽力しました。しかし、廃刀論で士族の反感を買い、明治2年に三条木屋町にて反対派士族に襲われ、同年敗血症で死去しました。






春の川を 隔てゝ 男女哉    漱石

夏目漱石の句碑

御池通 鴨川

木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに

春の川を 隔てゝ 男女(おとこおみな)哉    漱石

 句碑は昭和41年(1966年)11月、「漱石会」が明治の文豪 夏目漱石(1867‐1916)の生誕百年を記念して、句にゆかりの現地に建てた。

 漱石は、生涯、4度にわたって京都を訪れた。最初は明治25年(1892年)7月、友人で俳人の正岡子規とともに。2度目は明治40年(1907年)春、入社した朝日新聞に『虞美人草』を連載するためで、3度目は2年後の秋、中国東北部への旅の帰路であり、4度目は大正4年(1915年)春、随筆『ガラス戸の中(うち)』を書き上げた直後であった。

 このとき、漱石は、画家 津田青楓のすすめで木屋町御池の旅館「北大嘉(きたのたいが)」に宿泊。祇園の茶屋「大友(だいとも)」の女将磯田多佳女と交友をもつが、ある日、二人の間に小さな行き違いが起こる。漱石は、木屋町の宿から鴨川を隔てた祇園の多佳女を遠く思いながら発句を送った。句碑にある句である。

 この銘板は、平成19年(2007年)10月、京都での漱石を顕彰する「京都漱石の會」(代表 丹治伊都子)が発足したのを機に建てた。

 平成20年(2008年)4月   京都漱石の會 京都市









御池橋 加賀藩邸跡 高瀬川西岸

御池橋 加賀藩邸跡 高瀬川西岸



此付近加賀藩邸跡

 この高瀬川の西側、河原町通にいたる間は、江戸時代、加賀(石川県)藩の藩邸があった。藩邸が初めて置かれたのは、江戸初期で、古絵図には高瀬川の橋に、加賀橋の名が残っている。藩邸には留守居役が詰め、町人の御用掛を指名して、各種の連絡事務に当たった。

 加賀藩は江戸時代外様の最大の大名で、百二万七千石。前田家が代々藩主。幕末の加賀藩は、激動する政局の中で活躍することは少なかった。五代綱紀は学問芸術を愛好して文治政治を行った英主で、東寺の古文書を整理するなど京都との関係は深く、この伝統はその後も受け継がれた。此の藩邸は、こうして文化的に京都と加賀を結びつける大きな役割を果たした。










河原町通

河原町通

江戸時代の初めに、高瀬川の開削や、鴨川の新堤の築造によって開かれた通り。江戸時代には北の方は葵祭りの行列が通ることから御車道と呼ばれ、二条より南の方は門倉通とも呼ばれました。明治以降、市役所やホテルが建ち、道路の拡幅や市電の開通で、京都のメインストリートとなりました。




このルビの振り方には違和感があります。


京都市役所




2014-11-04

電気鉄道事業発祥地

電気鉄道事業発祥地

日本最初の電気鉄道はこの地に発祥した
即ち明治28年2月1日京都電気鉄道株式会社はと東洞院通り七条下る鉄道踏切南側から伏見油掛通りまで6キロの間に軌道を敷電車の運転を始めた

この成功を機として我が国電気鉄道事業は漸次全国に広がり今日の新幹線電車にまで発展することになったのである

よってその80周年にあたり先人の偉業を讃えてこの記念碑を立てる





2014-10-27

上野駅東西自由通路建設地点の遺跡とパンダ橋由来

上野駅東西自由通路建設地点の遺跡とパンダ橋由来

上野駅東西自由通度建設地点の遺跡

台東区上野公園五番

 東京都立上野公園内は上野忍岡遺跡群として縄文時代から近世の遺跡が広がり、江戸時代には寛永寺境内地であった。本遺跡は上野台地の東南の縁辺に位置し、北西に東京文化会館構内・国立西洋美術館構内の遺跡が分布している。当地は近世には寛永11年(1634年)から寛永寺子院の常照院が存在していたが、1678年に凌雲院が移転してきた。凌雲院の境内は当地から東京文化会館と国立西洋美術館まで続き、18世紀中頃以降は徳川御三卿(田安・一橋・清水家)の墓所となっていた。国立西洋美術館構内の発掘調査では清水家の墓が発見され、東京文化会館においても墓が確認されている。

 当地は平成10年(1998年)に東西自由通路(現パンダ橋)建設に伴い調査を実施した。調査地の北東側に17世紀頃の「段切状遺構」(雛壇状の区画)が検出され、また「地下室」等も見られ常照院に関係するものと推測される。その後北半分は整地されて墓所となっており、19世紀頃の板石組の石槨墓(5基)や墓所を区画する石組が発見され、一橋家の墓所と推測される。遺物では「地下室」から中国製磁器、銅製灯明具、松竹・鶴亀文印刻の土師質(素焼き)皿などが出土した。

 近世以前では縄文時代前期、弥生時代末期頃、古墳時代後期、奈良・平安時代の住居跡が調査されており、古墳時代の住居跡は焼失して屋根材が炭化したまま残っていた。その他に道路状遺構や縄文時代の集石などが発見されている。火災住居跡からは完全な形の土師器坏、金環(金銀貼の銅製耳環)が出土し、付近の摺鉢山古墳等に関連した集落とも推測される。

 1998年発掘調査での出土遺物は平成12年度台東区有形文化財(考古資料)に登録されている。

 平成15年3月 台東区教育委員会



パンダ橋 


 パンダ橋は上野をイメージし、子供から大人まで広く愛されています。この橋の名は、温かみがありかつ覚えやすいことから、公募により決まりました。
 なお、この石は接触変成岩のひとつで、花崗岩マグマが上昇中に砂岩や頁岩などをとりこんでできたもので、白と黒のコントラストの面白さがパンダ石と呼ばれています。