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2015-09-11

樺太犬供養塔

南極地域学術観測隊
樺太犬供養塔

白い南極の大陸で命を落とした15頭の”犬ぞり隊”の霊を慰めるための慰霊塔で、稚内公園の犬ぞり訓練所跡に、昭和36年10月、建立されたものです
観測隊がケルンをつくり、それを道標として雪原を前進したことから、慰霊碑は、三角のケルンに秩父硬石が張り巡らされています







樺太犬訓練記念碑

樺太犬訓練記念碑

 昭和31年 わが国が国際地球観測年の行事の一環として、南極地域観測に参加するにあたり北海道内から集まった樺太犬30数頭は、この地でソリの訓練を受けた。その中の代表22頭は観測隊員とともに遠く南極に渡り、昭和基地の建設に、また南極大陸内の調査探検にソリを曳いて立派にその使命を果たした。ここに記念碑を建て、永久にその功績をたたえる。

昭和34年11月(1959 11)
日本学術振興会
南極地域観測後援特別委員会






2015-09-07

九人の乙女の碑

稚内公園にて

「九人の乙女の碑」

戰いは終わつた。それから五日昭和二十年八月二十日、ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如日本軍との戰いが始まつた。
戰火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女等は死を以って己の職場を守った
窓越しにみる砲彈のさく烈、刻々と迫る身の危険、今はこれまでと死の交換台に向かい「皆さんこれが最後です さようなら さようなら」の言葉を残して静かに青酸苛里をのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた
戦争は再びくりかえすまじ、平和の祈りをこめて尊き九人の乙女の靈を慰む



殉職した九人の乙女 
高石ミキ(24) 
可香谷シゲ(23) 
吉田八重子(21) 
志賀晴代(22) 
渡辺照(17) 
高城淑子(19) 
松橋みどり(17) 
伊藤千枝(22) 
沢田キミ(18)
稚内旅行 クチコミガイドより
http://4travel.jp/domestic/area/hokkaido/hokkaido/wakkanai/wakkanai/hotplace/10007832-map/#contents_inner


寄贈
東京都 本郷 新
札幌市 上田佑子

本郷新
高村光太郎に師事した彫刻家。すぐ近くにある「氷雪の門」の作者。わだつみ像も。
1948年 日本共産党入党
ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%83%B7%E6%96%B0

上田佑子
樺太引揚者
稚内旅行 クチコミガイドより
http://4travel.jp/domestic/area/hokkaido/hokkaido/wakkanai/wakkanai/hotplace/10007832-map/#contents_inner


参考
ブログ 「小名木善行 ねずさんの ひとりごと」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2740.html










This monument was built in honor of the souls of the nine maiden telephone operators who perished in the national border laid along Maoka Post Office Karafuto was connected to the soviet Union by the national border laid along the 50th parallel north. In August 1945, the border was unexpectedly attacked by Soviet Armed Forces, breaking 40 years of silence. As evacuation of the island residents begun, war raged through the town of Maoka. Gunfire and explosions could be seen from the windows. In the face of certain danger, the telephone operators stayed at their switchboards until the very last.
"Everyone, this is the end, Farewell, farewell..." Leaving these final words, they took their lives with potassium cyanide, The date was August 20th, five days after the war ended.

2015-02-05

和をのぞむ

和をのぞむ

 太平洋戦争の末期、昭和20年5月、山の手地域に大空襲があり、赤坂・青山地域の大半が焦土と化しました。
 
 表参道では、ケヤキが燃え、青山通りの交差点付近は、火と熱風により逃げ場を失った多くの人々が亡くなりました。

 戦災により亡くなった人々を慰霊するとともに、心から戦争のない世界の平和を祈ります。

 港区政60周年にあたり、この地に平和を願う記念碑を建立します。

平成19年1月 港区赤坂移築総合支所 区政60周年記念事業実行委員会





2014-11-14

「山門を 出れば日本ぞ 茶摘み歌」 菊舎 

山門を 出れば日本ぞ 茶摘み歌  
七十三齢 菊舎

黄檗山萬福寺にて


 一字庵田上菊舎は、宝暦3年(1753年)10月14日、現山口県下関市豊北町田耕に生まれた。16歳で近くの村田家に嫁いだものの、24歳のとき夫と死別。子供がいなかったため、実家に復籍。俳諧の道をこころざし、芭蕉を慕い、尼僧となって諸国行脚に明け暮れ一世を風靡した美濃派の俳人である。

 菊舎が萬福寺に初めて詣でたのは、寛政2年(1790年)3月、38歳のときで、

 見聞に耳目をおどろかしつゝ、黄檗山のうちを拝しめぐり、誠に唐土の心地し侍れば

 山門を出れば日本ぞ茶摘うた

と詠んでいる。

 黄檗山のたたずまいに酔いしれた菊舎が、三門を出た時、門前の茶畑からうたが聞こえ、一瞬我に返った時の句である。

 菊舎は、文政9年(1826年)8月23日、同市長府にて死去。享年74歳。

 句碑の銅板は第二次大戦中の金属供出により失われていたため、平成17年8月、菊舎顕彰会が復元したものである。








佐久間象山 大村益次郎 遭難の碑

佐久間象山 大村益次郎 遭難の碑

 佐久間象山は信州松代藩の出身で、儒学や朱子学を修め、西洋科学の導入で日本の殖産興国に尽力しました。彼の塾からは、勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬ら傑物を排出します。元治元年(1864年)に上洛し、開国論を唱えて公武合体に務めたため、同年7月11日に刺客に斬殺されました。

 大村益次郎は長州藩出身で、医学を梅田幽斎に学び、さらに緒方洪庵の適塾でも学んで兵学者となりました。長州藩の軍事指導者として活躍し、その功績から維新後、兵部大輔に任命され、近代兵制樹立に尽力しました。しかし、廃刀論で士族の反感を買い、明治2年に三条木屋町にて反対派士族に襲われ、同年敗血症で死去しました。






春の川を 隔てゝ 男女哉    漱石

夏目漱石の句碑

御池通 鴨川

木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに

春の川を 隔てゝ 男女(おとこおみな)哉    漱石

 句碑は昭和41年(1966年)11月、「漱石会」が明治の文豪 夏目漱石(1867‐1916)の生誕百年を記念して、句にゆかりの現地に建てた。

 漱石は、生涯、4度にわたって京都を訪れた。最初は明治25年(1892年)7月、友人で俳人の正岡子規とともに。2度目は明治40年(1907年)春、入社した朝日新聞に『虞美人草』を連載するためで、3度目は2年後の秋、中国東北部への旅の帰路であり、4度目は大正4年(1915年)春、随筆『ガラス戸の中(うち)』を書き上げた直後であった。

 このとき、漱石は、画家 津田青楓のすすめで木屋町御池の旅館「北大嘉(きたのたいが)」に宿泊。祇園の茶屋「大友(だいとも)」の女将磯田多佳女と交友をもつが、ある日、二人の間に小さな行き違いが起こる。漱石は、木屋町の宿から鴨川を隔てた祇園の多佳女を遠く思いながら発句を送った。句碑にある句である。

 この銘板は、平成19年(2007年)10月、京都での漱石を顕彰する「京都漱石の會」(代表 丹治伊都子)が発足したのを機に建てた。

 平成20年(2008年)4月   京都漱石の會 京都市









御池橋 加賀藩邸跡 高瀬川西岸

御池橋 加賀藩邸跡 高瀬川西岸



此付近加賀藩邸跡

 この高瀬川の西側、河原町通にいたる間は、江戸時代、加賀(石川県)藩の藩邸があった。藩邸が初めて置かれたのは、江戸初期で、古絵図には高瀬川の橋に、加賀橋の名が残っている。藩邸には留守居役が詰め、町人の御用掛を指名して、各種の連絡事務に当たった。

 加賀藩は江戸時代外様の最大の大名で、百二万七千石。前田家が代々藩主。幕末の加賀藩は、激動する政局の中で活躍することは少なかった。五代綱紀は学問芸術を愛好して文治政治を行った英主で、東寺の古文書を整理するなど京都との関係は深く、この伝統はその後も受け継がれた。此の藩邸は、こうして文化的に京都と加賀を結びつける大きな役割を果たした。










河原町通

河原町通

江戸時代の初めに、高瀬川の開削や、鴨川の新堤の築造によって開かれた通り。江戸時代には北の方は葵祭りの行列が通ることから御車道と呼ばれ、二条より南の方は門倉通とも呼ばれました。明治以降、市役所やホテルが建ち、道路の拡幅や市電の開通で、京都のメインストリートとなりました。




このルビの振り方には違和感があります。


京都市役所




2014-10-13

親鸞聖人旧蹟 小島草庵跡

親鸞聖人旧蹟 小島草庵跡





権力闘争に明け暮れる支配者の下 人間いかに生きるべきか 真実を求めてやまない親鸞は 愚劣な政治権力に追われて京から越後へ 茨の道を踏み分けて幾山河 やがて妻恵信尼と息信蓮を伴い 初めて常総の地を踏み 小島の荘に入られたのは建保2年聖人42歳のときである

煩悩を断ずることなく他力本願の念仏布教に徹する聖人の姿は 慈愛と活力に満ち溢れた純粋崇高な仏の姿であった

小島草庵は 恵信尼が「二幅の御影」を夢みられたところ 聖人はこの地にとどまること3年 草庵を門弟の蓮位坊に譲って稲田に移られ常総在住20年 衆生と共に苦しみ悲しみ逞しく生きぬく他力本願の立教開宗の偉業を完成されたのである

苛烈な圧政と 極度の貧困に喘ぐ人びとの心に 浄土欣求の灯を点じ 荒廃しゆく常総の天地に 弥陀の光明を輝かせた不滅の聖業は 日本人の胸底に深く刻み込まれ 永遠に生きつづけている


新いばらきタイムス社は 聖人生誕800年 立教開宗750年を記念し数多くの県民の方々と聖人の高弟小川の豪族 幡谷二郎信勝唯信房の後裔 幡谷仙三郎氏の篤志に依り この地に遺徳顕彰碑を建立するものである
1973年 11月吉日 大津平八郎誌

親鸞聖人遺徳碑建立委員会
名誉会長 茨城県知事 岩上 二郎
委員長  下妻市長  加藤 俊介
副委員長 新いばらきタイムス社長 鈴木 正樹

篤志寄付 幡谷 仙三郎 東茨城群小川町
碑施工 原石寄進 川俣石材店 川俣 正雄 西茨城郡岩瀬町










市指定史跡 小島草庵跡
指定年月日 昭和52年3月22日

 親鸞は、その生い立ちから、配流、妻帯、東国移住の動機、小島居住説をはじめ、その生涯について、いろいろな論がなされており、親鸞伝の決定版はまだ見られないが、当地には次のような伝承が残されている。

 越後流罪と滞留7年の後、親鸞は建保2年(1214年)、妻子を伴って上野国佐貫を経て、常陸国に入り、最初に居住したのが、この小島草庵である。小島郡司の武弘が親鸞の徳を慕い、この地に草庵を設けて迎えた。ここに3年間滞留し、越後で果たせなかった真宗念仏の伝道に積極的に乗り出した。いわばこの草庵(三月寺)こそ真宗開祖の親鸞が関東において真価を発揮した最初の土地である。

 親鸞の高弟蓮位坊は当地出身といわれ、子孫は下間(しもつま)氏と称して、鎌倉時代から現代に至るまで、東・西本願寺の坊官を勤めている。

 草庵跡には「親鸞聖人旧跡」、「三歳御住居」とした古碑、欽明天皇、用明天皇、聖徳太子の墓に、後に親鸞の墓を加えて「四体仏」と呼ぶ五輪塔と、親鸞を慕ったという「稲田恋しの銀杏」の大樹がある。

平成14年3月 下妻市教育委員会




















2014-10-02

札幌市道路元標

札幌市道路元標
赤れんが庁舎入口前 (「赤レンガテラス」至近)



 この道路元標は
北海道及び札幌市の道路の起終点として、昭和3年にはじめて設置したが、昭和57年3月に再建したものである。

 道路元標とは、各市町村の国道、道道の起終点となっていたものである。





参考 札幌市内散歩

2014-07-20

北海道旅行の写真アルバム

北海道旅行の写真アルバムです。

少しずつ説明をつけ始めていますが、まだまだです。
詳細説明がないと、どこの写真かは分からないと思いますが、想像してください。

「Youtube」とあるのはスライドショーになっています。一部キャプションをつけています。

北海道旅行 第1日目 2014年6月21日
新千歳空港 北広島 クラッセホテル 良寿し


北海道旅行 第2日目 2014年6月22日
支笏湖 長沼町 ゆにガーデン マオイの丘 森下松風庵 ジンギスカン

支笏湖Youtube キャプション付き

北海道旅行 第3日目 2014年6月23日
長沼 帯広 幸福駅 愛国駅 釧路湿原


釧路 摩周湖 屈斜路湖 オシンコシンの滝 知床峠


網走 流氷館 監獄 石北峠 美瑛 旭川


北海道旅行 第6日目 2014年6月26日
JR旭川駅 富良野 ファーム富田 札幌 まある

ファーム富田youtube キャプション付き
札幌市内散歩youtube
まあるyoutube

最終日 長沼再訪 マオイの丘展望台 帰還へ

2014-06-26

神居古潭石

神居古潭石
 JR旭川駅南側にある「神居古潭石」。

 神居古潭石は、旭川近郊の神居古潭峡谷から引き上げた貴重な石です。1億数千年(ママ)前の大陸移動中に起こった海底火山の噴出物が地中深くに閉じ込められ高温高圧によって硬い岩石に変化しました。地殻変動によって地上に押し上げられ、石狩川で水研され黒光りする銘石に磨き上げられたものです。

 神居古潭石は様々なパワーストーン(ママ)を持つと言われます。触れて神居古潭石のパワーを試してください。

旭川ライオンズクラブ








パワーストーンにタッチ。