2022-11-20

会津若松鶴ヶ城

 会津若松鶴ヶ城

令和4年(2022)1月20日撮影

北方監視の役目を担っていた会津藩が、なにゆえ京都守護職を受けなければならなかったのか。さらに戊辰の役で西軍から朝敵とされて後、恭順の意を示すも徹底攻撃され壊滅させられた。会津藩はその後新政府の懲罰的な命により、斗南藩として下北に移封。不毛極寒の痩地で、いかに誇り高い会津藩士とて、生きることができずに多くの命が失われた。

しかし、会津人の素晴らしさは、そのような境遇にありながら、その後の日本を支える人材を多く出したことにもある。



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