2014-12-24

なんじゃもんじゃの木

なんじゃもんじゃの木

東京都新宿区の歴史 より

この木の親木は古く幕末の頃、ここから南へ約400メートルの六道の辻にあったので、「六道木」とも呼ばれた珍しい木である。
明治18年(1885)にこのあたりは青山練兵場となったが、時の政府は所有者、萩原三之助からこれを買上げそのまま残した。
明治36年(1903)、白井光太郎博士(元帝国大学教授)が政府にこの木の保護願いを出し、種々尽力したため大正13年(1924)12月天然記念物の指定を受け保護されることになった。
然し樹齢百数十年といわれた名木も遂に昭和8年(1933)枯死した。
練兵場に枝を広げて立つ明治39年(1906)頃の六道木の姿は、絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)の中に描かれており、またその遺木の一部絵画館内に飾られている。
ここにあるひとつばたごは、2代目六道木で、明治36年(1903)頃白井博士が根接法により得たものであると伝えられている。
この由緒ある名木を、できるだけ多くの方にご覧いただくため、このたび碑石と共にここに移し植えたものである。
ひとつばたごの名称は、江戸時代の植物学者水谷豊文が、尾州二ノ宮山中(愛知県)でこの木を発見し名づけたものと伝えられるもくせい科に属する落葉樹で、国内では愛知、岐阜、対馬に産し、都内では十数ヶ所に見られる。
 昭和53年(1978)12月 明治神宮外苑

明治神宮HPにある説明




日本青年館

日本青年館の由来

 日本青年館は、明治神宮とは非常に深い関係にあります。大正6年頃、神宮の造営工事が戦争のために難行していた時、全国の青年団員は、勤労奉仕に立ち上がり、見事に完成させました。十万本を数える神宮の森も、当時の青年たちが、全国から持ち寄ったものです。

 この快挙に対して、皇太子殿下(昭和天皇陛下)よりお褒めのことば(令旨)を賜りましたが、感激した青年たちは、記念事業として、自分たちの城である日本青年館の建設を決めました。
 大正の青年たちは、植林作業や土木工事、禁酒、禁煙など、一人一円募金を行って145万円を集め、大正14年、当時としては近代的な施設(ホール・ホテル)を建設いたしました。以来、青少年はもとより、各界各層の宿泊研修、コンサート、公演など、多目的に利用されてまいりました。

 しかし、半世紀を過ぎた建物は、新しい時代に対応できなくなったため
、昭和54年、日本青年団協議会の5億円募金を原資として新館を建設いたしました。総工費58億円を投じた館は、延床面積24,401㎡(約7,500坪)、地上9階、地下3階の施設に生まれ変わり、旧館同様に、多くの人々に利用され、親しまれております。

日本青年館の移築計画について








聖徳記念絵画館

聖徳記念絵画館

本館は、明治神宮の祭神
明治天皇、昭憲皇太后の御遺徳を永く記念するため、国民の献金によって大正15年10月に完成したものであります。
館内の壁画はお二方の御事績を当代一流の画家たちが心血を注いで謹写したもので明治天皇のご一代記であると同時に「目で見る明治史」とも言えるものであります。






札の辻橋

「札の辻橋は、昭和8年(1933年)地域の交通を結ぶ橋として架けられましたが、平成16年(2004年)に現在の橋に生まれ変わりました。

このモニュメントは当時の橋で使われた石や橋名板を再利用してい造られたものです。」

(札の辻橋は、JR田町駅の品川駅側に架かる跨線橋です。)



















品川駅に向かう東海道新幹線

C62形蒸気機関車の動輪 鉄道100年に完成した東京地下駅に設置

C62形蒸気機関車

最大寸法 長さ 21.475M 幅 2.936M 高さ4.005M 重量 積143.07t 空97.75t

”みなさんの足”として親しまれてきた国鉄は、今年で創業100年を迎えました。蒸気機関車は、この歴史とともに歩んできました。第二次世界大戦で戦災を受けた東京駅が修復された昭和23年に、これと時を同じくして誕生したC62形蒸気機関車は、日本復興のエースとして活躍し、世界最高の時速129キロをきろくするなど、技術の粋をあつめた”栄光の名機”とうたわれました。
 このC6215号機は、東海道、山陽、函館本線などを駆けめぐり、昭和46年12月解体されるまで、約263万キロ(地球を65.7周)を走り続けました。”鉄道100年”に完成した東京地下駅に、同機の動輪をかざり、その歴史をたたえることとしました。

昭和47年7月15日

日本国有鉄道

Wikipedia 国鉄C62形蒸気機関車









2014-12-09

道標 大山道(おおやまみち)

道標 大山道

大山道(おおやまみち)は、矢倉沢往還(やぐらざわおうかん)の俗称である。この道標は、旧大山道(代官屋敷前経由)と、文化・文政期ごろに開通したといわれる新大山道(桜新町経由)との分かれ道にあった石橋楼(三権茶屋の地名の起こりの茶屋の一つ)の角に建てられていた。

大山は、古い民俗信仰である石尊信仰と山岳仏教の信仰とが結合し、相模の修験道場として重きをなし、将軍をはじめ多くの人々に尊崇された。とくに文化・文政期以降は江戸町人などの大山詣りが盛んになり、その案内のため大山道沿道に多くの道標が建てられた。

この道標は、玉川電車の開通や、東京オリンピックの道路の拡幅などにより点々と移されたが、昭和58年5月に三軒茶屋町会結成50周年記念事業の一つとして、元の位置近くに復された。





2014-11-30

有楽大黒


有楽大黒


「有楽大黒の御縁起」


 この大黒様は大江戸の守護神である山王日枝神社の神木によって、大分出身の平野米一氏が昭和初年に謹彫され、当時駅前の「亀八」寿司の主人が秘蔵し、朝夕拝礼して居られました。

 第二次大戦の末期、空襲をさけて駅長に贈られ、やがて中央改札口に守護神として鎮座されましたが、このがび日枝神社宮司様の奉仕で鎮座式を執行し、当所に末永く祀られる事になりました。大黒様は古来、福徳円満諸願成就の神、特に飲食を司り、商売繁昌の神として信仰が厚く、ご通行の皆様の安全、幸福をお守りいただく霊験あらたかな神様です。

昭和56年 春 有楽町駅長





















2014-11-20

「放送記念碑」 わが国最初の放送電波が発せられたゆかりの地

(JR田町駅芝浦口)

「放送記念碑」

 ここは大正14年3月22日 わが国最初の放送電波が発せられたゆかりの地です。

 東京放送局が、当時ここにあった東京高等工芸学校の図書室を仮放送所としてラジオ第一声を送り出しました。

 この放送発祥の地に、放送開始30周年を記念して「放送記念碑」を建立したものです。

日本放送協会


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東京高等工芸学校の沿革

 本校は大正10年12月この地に創立されました。戦時下の昭和19年3月に東京工業専門学校と改称され、昭和20年5月戦災による校舎焼失のため、同年10月千葉県松戸市に移転いたしました。昭和24年5月学制改革により千葉大学工芸学部として発足し、同26年4月工学部に改組され、同39年7月千葉市に移転し今日に至っております。

 平成3年12月 創立70周年を記念し、こゝに沿革をかかげました。

平成4年7月吉日 千葉大学工学部 千葉大学工学同窓会







2014-11-14

「山門を 出れば日本ぞ 茶摘み歌」 菊舎 

山門を 出れば日本ぞ 茶摘み歌  
七十三齢 菊舎

黄檗山萬福寺にて


 一字庵田上菊舎は、宝暦3年(1753年)10月14日、現山口県下関市豊北町田耕に生まれた。16歳で近くの村田家に嫁いだものの、24歳のとき夫と死別。子供がいなかったため、実家に復籍。俳諧の道をこころざし、芭蕉を慕い、尼僧となって諸国行脚に明け暮れ一世を風靡した美濃派の俳人である。

 菊舎が萬福寺に初めて詣でたのは、寛政2年(1790年)3月、38歳のときで、

 見聞に耳目をおどろかしつゝ、黄檗山のうちを拝しめぐり、誠に唐土の心地し侍れば

 山門を出れば日本ぞ茶摘うた

と詠んでいる。

 黄檗山のたたずまいに酔いしれた菊舎が、三門を出た時、門前の茶畑からうたが聞こえ、一瞬我に返った時の句である。

 菊舎は、文政9年(1826年)8月23日、同市長府にて死去。享年74歳。

 句碑の銅板は第二次大戦中の金属供出により失われていたため、平成17年8月、菊舎顕彰会が復元したものである。








佐久間象山 大村益次郎 遭難の碑

佐久間象山 大村益次郎 遭難の碑

 佐久間象山は信州松代藩の出身で、儒学や朱子学を修め、西洋科学の導入で日本の殖産興国に尽力しました。彼の塾からは、勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬ら傑物を排出します。元治元年(1864年)に上洛し、開国論を唱えて公武合体に務めたため、同年7月11日に刺客に斬殺されました。

 大村益次郎は長州藩出身で、医学を梅田幽斎に学び、さらに緒方洪庵の適塾でも学んで兵学者となりました。長州藩の軍事指導者として活躍し、その功績から維新後、兵部大輔に任命され、近代兵制樹立に尽力しました。しかし、廃刀論で士族の反感を買い、明治2年に三条木屋町にて反対派士族に襲われ、同年敗血症で死去しました。






春の川を 隔てゝ 男女哉    漱石

夏目漱石の句碑

御池通 鴨川

木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに

春の川を 隔てゝ 男女(おとこおみな)哉    漱石

 句碑は昭和41年(1966年)11月、「漱石会」が明治の文豪 夏目漱石(1867‐1916)の生誕百年を記念して、句にゆかりの現地に建てた。

 漱石は、生涯、4度にわたって京都を訪れた。最初は明治25年(1892年)7月、友人で俳人の正岡子規とともに。2度目は明治40年(1907年)春、入社した朝日新聞に『虞美人草』を連載するためで、3度目は2年後の秋、中国東北部への旅の帰路であり、4度目は大正4年(1915年)春、随筆『ガラス戸の中(うち)』を書き上げた直後であった。

 このとき、漱石は、画家 津田青楓のすすめで木屋町御池の旅館「北大嘉(きたのたいが)」に宿泊。祇園の茶屋「大友(だいとも)」の女将磯田多佳女と交友をもつが、ある日、二人の間に小さな行き違いが起こる。漱石は、木屋町の宿から鴨川を隔てた祇園の多佳女を遠く思いながら発句を送った。句碑にある句である。

 この銘板は、平成19年(2007年)10月、京都での漱石を顕彰する「京都漱石の會」(代表 丹治伊都子)が発足したのを機に建てた。

 平成20年(2008年)4月   京都漱石の會 京都市









御池橋 加賀藩邸跡 高瀬川西岸

御池橋 加賀藩邸跡 高瀬川西岸



此付近加賀藩邸跡

 この高瀬川の西側、河原町通にいたる間は、江戸時代、加賀(石川県)藩の藩邸があった。藩邸が初めて置かれたのは、江戸初期で、古絵図には高瀬川の橋に、加賀橋の名が残っている。藩邸には留守居役が詰め、町人の御用掛を指名して、各種の連絡事務に当たった。

 加賀藩は江戸時代外様の最大の大名で、百二万七千石。前田家が代々藩主。幕末の加賀藩は、激動する政局の中で活躍することは少なかった。五代綱紀は学問芸術を愛好して文治政治を行った英主で、東寺の古文書を整理するなど京都との関係は深く、この伝統はその後も受け継がれた。此の藩邸は、こうして文化的に京都と加賀を結びつける大きな役割を果たした。










河原町通

河原町通

江戸時代の初めに、高瀬川の開削や、鴨川の新堤の築造によって開かれた通り。江戸時代には北の方は葵祭りの行列が通ることから御車道と呼ばれ、二条より南の方は門倉通とも呼ばれました。明治以降、市役所やホテルが建ち、道路の拡幅や市電の開通で、京都のメインストリートとなりました。




このルビの振り方には違和感があります。


京都市役所