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2018-04-25

松井須磨子の養家跡(推定地)

松井須磨子の養家跡(推定地)長野県上田市松尾町

松井須磨子は、明治から大正期の大女優で、日本初の近代演劇女優です。

須磨子は、明治19年に松代の旧家にて生まれました。6歳の時に、叔母の嫁ぎ先である上田で洋品店を営む商家へと養女に出されています。

そして上田女子尋常高等小学校へ通う10年間、須磨子は上田で暮らしました。

多感な少女時代を過ごした養家の場所は記録が残っておらず不明ですが、当時の地図からここだったと推測されます。

その後、上京して坪内逍遥が主宰する文芸協会の演劇研究所に入所した須磨子は、明治44年に「ハムレット」のオフィーリア役にてデビューし、華々しいスターの道を歩み始めます。大正2年には熱烈な恋愛関係にあった島村抱月とともに「芸術座」を設立。トルストイの「復活」での劇中歌「カチューシャの歌」など、次々と大ヒット作を世に送り出し続けました。



2018-04-09

善光寺七福神めぐり

善光寺七福神めぐり



そのほかの写真は下記リンクでご覧ください。



善光寺東参道 開鑿記念碑

善光寺東参道 開鑿記念碑


記念碑

大正12年長野電鐵株式會社創立セラルルヤ善光寺東口方面開發並ビニ一般市民利便達成ノ為メ主要停車場ノ設置及之カ連絡道路ノ開鑿ヲ計畫シ關係地元六箇町區長並ニ有志相謀リ頼母子講第一公益講ヲ組織シテ經日費ノ醵出ヲ企圖シ時ノ電鐵社長神津藤平氏及長野市長丸山辨三郎氏ノ指導援助ニ依リ縣會市會ノ協賛ヲ得遂ニ道路ノ開通並ニ善光寺下驛ノ竣設ヲ見ルニ至レリ是レ實ニ如上關係者及講員各位ノ協心戮力ノ賚ニ外ナラス茲ニ碑ヲ建テ由來ヲ記シ以テ後昆ニ傳フト伝爾

信濃招魂社 在天の英霊に捧ぐ

信濃招魂社 在天の英霊に捧ぐ 
碑文書き起こし



天の英霊に捧ぐ

 限りなき蒼壁の涯に夢を追いし少年の日 国家興亡の命運を知り 率先 空への道を拓く。選ばれては陸軍航空の重責を担い、武窓に入りては、操縦通信整備の特技を修む。出でては異郷千里、征旅倥偬の日を過ごす。進みては特別攻撃隊員として玉砕、或は空戦に爆襲火戦に殪れ遺恨病魔に逝く。魂氣いまも勇雲の彼方に在す。
 戦争目的の正邪帰趨を問はず、純真な愛國の至情を抱き従順に祖國と民衆のために散華せし兄等よ、安らかに眠れ。
 ああ 星霜は往く 離魂妖魔を拂い、この平和を永遠に護り継ぎて、幽勝揺籃の山河いまも明媚たり。この信濃の地に 兄等の芳名と武勲とを子孫に留め、鎮魂の詞を捧ぐ 魂魄心あらば來たりて我等が意趣を饗(う?)けよ

昭和47年5月15日 沖縄復帰の日
元陸軍少年飛行兵第15期生 笹部 武安 撰文
同右            丸山 重雄 謹書
長野県小飛會 建之


設計監理 長野市 株式会社 園建
石工事施工 大町市三日町 柴田石材









https://photos.app.goo.gl/zEDG1DfD9v12MDH42

2018-04-08

善光寺日本忠霊殿

善光寺日本忠霊殿






善光寺日本忠霊殿造営の由来
奉祀の霊240万柱

善光寺日本忠霊殿は戊辰の役(明治元年ー1868年ー)以降太平洋戦争に至る間 国難に殉じた240万の忠霊を奉祀(ほうし)(おまつり)する わが国ただ一つの仏式による霊廟(れいびょう)(おたまや)であり 明治39年(1906年)の創建に成ります。
たまたま日支事変 太平洋戦争における殉国の将兵100万余柱の遺骨遺髪など「おかたみ」を勧請(かんじょう)(おむかえ)したのを機縁(きえん)に 新たに永世不朽(えいせいふきゅう)の殿堂を建立することに財団法人善光寺日本忠霊殿造営奉賛会を結成 浄財を全国に求めました
趣旨に賛して寄進する有志都鄙(とひ)を蔽(おう)うて余さず 造営の工程も順調に進んで昭和45年3月(1970年)廟塔(びょうとう)を落成し 240万の忠霊安らかにここに鎮まりました。

平和祈願の霊廟
本尊は阿弥陀如来

善光寺日本忠霊殿は 善光寺の本尊一光三尊仏(いっこうさんぞんぶつ)=阿弥陀如来(あみだにょらい) 観世音菩薩(かんぜおんぼさつ) 勢至菩薩(せいしぼさつ)=請来(しょうらい)(おむかえ)して本尊と定めました
年祖国に殉じ 人類永遠の平和の礎(いしずえ)と化した精忠(せいちゅう)赫々(かくかく)の霊魂(みたま)は 仏のみちびきによってこの霊廟に鎮まり阿弥陀如来の慈悲のみ光のもと 永久(とわ)に国家民生の安泰をお護りするのであります
敬仰追慕(けいぎょうついぼ)して忠霊の冥福を念じ 祖国万邦の和平繁栄を冀(こいねが)い併せて一家同胞(はらから)の息災延命(さわりなき)をお祈りいたしましょう

昭和45年4月吉日



善光寺日本忠霊殿
戊辰戦争(ママ)から第二次世界大戦(ママ)までの戦争で亡くなった、約
万柱の英霊を祀る仏式霊廟です。明治39年(1906年)に創建され、昭和45年(1970年)に現在の姿に改築されました。1階には善光寺ゆかりの宝物を展示する「善光寺資料館」が併設されています。


2017-01-30

市ヶ谷亀ヶ岡八幡宮

市ヶ谷亀ヶ岡八幡宮の銅鳥居

新宿区指定有形文化財

所在地 新宿区市谷八幡町15番地
指定年月日 昭和62年1月30日

 文化元年(1804)12月建立の銅製明神型鳥居で、高さ4.6メートル、台石0.55メートル、柱には、初願者・当八幡宮別当第7世智光、造立者・東圓寺現住仁龍他7名、鋳物師・西村和泉藤原政平の建造銘と、寄進者442名の名前や職業が陰刻されている。

 「八幡宮」の額は、播磨姫路15万石や酒井家11代当主雅楽頭忠道の書によるもので、八の字は八幡宮の神使の鳩一対によって形成されている。

 区内に現存する唯一の銅製鳥居で、意匠や鋳造技術にも優れており貴重である。





本堂の脇にある「八紘一宇」の碑


2016-10-24

芝浦三丁目のMINATOYA

芝浦三丁目のMINATOYAが閉店しました。東京都港区芝浦三丁目11ミナトヤビル

75年余の営業を終えたそうです。
フランチャイズチェーン店ではない、地元の食品店からの営業と思います。
出勤時に昼食用のものをよく買いました。今朝はこのような状態になっていたので驚きました。
76年前、1940年頃から営業とすると。第二次世界大戦が始まったころから戦中、戦後、高度経済成長発展期。社会の変動をこの場所で見続けていたことと思います。
 この場所。今は超高層住宅群から駅に急ぐ人。駅から逆方向に通勤する人(私はこちらの方)。双方向の通行の多い場所です。日用品食品を扱うにはいい場所だと思っていましたが。
 古い人に聞くと数年前、お店の改装をしてきれいなったそうです。それまでは惣菜などを作っている様子が店先から見えたり、昔のお店の雰囲気だったそうです。今のようにきれいになってから雰囲気が変わったそうです。けして悪くなったのではなく、他のお店と同じ土俵に乗ってしまったのかと。



備後護国神社内の「宮本武蔵腰掛石の由来」

備後護国神社内の「宮本武蔵腰掛石の由来」




 元和元年(1615年)大阪夏の陣において、武蔵は、三河刈谷三万石城主水野日向守勝成の陣に属し参陣する。寛永年中(1624年から1629年)武蔵は福山城に勝成を訪う。武蔵の養子三木之助は水野家中、中川志摩之助の三男なり。水野家二番家老中山将監は、大阪陣中におけるよしみにより、武蔵を自邸において饗應。その時、武蔵が将監屋敷庭園の庭石に腰を掛けたのが、武蔵腰掛石として伝承されていた。

 水野氏断絶改易となり、阿部氏入封、それ以後将監屋敷は、阿部家第二家老下宮氏の屋敷となる。明治4年廃藩後、下宮氏はこの屋敷を引き拂うにあたり、この石の由緒によりこれを阿部神社に寄進したものである。

原文 平井隆夫 鷹の羽会





備後護国神社 阿部神社

備後護国神社 御由緒 御神徳

 当神社は、昭和32年まで阿部神社と称えていましたが、国家のために殉じられた御英霊を合祀した備後護国神社と合併して、社名を備後護国神社と改め、阿部神社の社名はなくなりました。

 阿部神社の建立は、文化10年(西暦1813年)に時の福山藩主が、歴代の祖霊を祀ったのがはじまりです。
 
 御祭神は、大彦命、武沼河別命(二柱とも四道将軍)を始め歴代藩主をお祀りしてあります。

 御神徳は、御祭神の御功績によるもので、大彦命の開拓・平定による開運・家内安全・健康・厄除等です。

 歴代の中で特に阿部正弘公は、老中筆頭として国旗(日の丸)を制定され、嘉永6年(西暦1853年)ペリー来航に当たり和親条約を締結し、日本の開国と、福山に誠之館を創設して、近代教育の基礎をつくられた教育の神様で、天満宮と並び尊ばれ、受験合格・学業成就の神として信仰されています。

例祭日
備後護国神社 10月23日
阿部神社 勇鷹祭 5月19日

広島県福山市丸之内1丁目9−2 備後護国神社





阿部正弘公石像潜り

正弘公は天保14年(1843年)25歳にして江戸幕府老中、今の大臣になり教育に力を注ぎ嘉永5年(1852年)老中筆頭、今の総理大臣に就き江戸と福山に誠之館を建てる。安政元年(1854年)日米、日英、日露の和親条約を結び開国し、近代文明国、日本の基礎を作る。また、学問のできる人材を広く重用して教育の重要性を高揚し、日の丸を日本の国旗と制定した人でもあります。阿部家11代、福山城主7代目の正弘公は、当神社の御祭神であり、希望学校の合格、就職の御祈祷を受けられ、石像を潜り希望をかなえてください。


2016-10-11

川柳の原点 誹風柳多留発祥の地

川柳の原点

誹風柳多留発祥の地

川柳は、江戸時代に江戸で生まれた17音の庶民文芸として今日に伝わっています。川柳の名称は、宝暦7年(1757年)に浅草新堀端にはじまりましたが、明和2年(1765年)7月、呉陵軒可有という人が、初代川柳評の前句付万句合の勝句(入選句)から17音の付句のみで鑑賞でき、深い笑いのある句を選び、今日<川柳の原点>とも呼ばれる。『誹風柳多留』を刊行しました。このことにより川柳は、<17音独立文芸>として確立され、後に全国へと広がっていきました。
 
 この付近には、『誹風柳多留』の版元・星運堂(花谷久次郎)があり、俳諧書などを刊行するかたわら、三代にわたり、『誹風柳多留』を通じて<川柳風>の隆盛に貢献、川柳を「江戸文芸」の一つにまで育てました。「誹風柳多留発祥の地」は「文芸川柳発祥の地」でもあります。

 記念碑の「羽のあるいいわけほどはあひる飛ぶ」の句は、「木綿」を号とした「誹風柳多留」の編者・呉陵軒可有の作です。

平成27年8月
柳多留250年実行委員会
台東区教育委員会

東京都台東区上野公園 池之端三丁目 





2016-01-18

東京大学発祥の地

東京大学発祥の地

我が国大学の発祥地

 当学士会館の現在の所在地は我が国の大学発祥地である。

 すなわち、明治10年(1877年)4月12日に神田錦町3丁目に在った東京開成学校と神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併し、東京大学が創立された。

 創立当初は法学部・理学部・文学部・医学部の4学部を以って編成され、法学部・理学部・文学部の校舎は神田錦町3丁目の当地に設けられていた。

 明治18年(1885年)法学部には文学部中の政治学及び理財学科が移され法政学部と改称され、また理学部の一部を分割した工芸学部が置かれた。このようにして東京大学は徐々に充実され明治18年までに本郷への移転を完了した。

 従って、この地がわが国の大学発祥地すなわち東京大学発祥の地ということになる。

 明治19年3月東京大学は帝国大学と改称され、その時、それまで独立していた工部大学校と工芸学部が合併され工科大学となり、その後東京農林学校が農科大学として加えられ、法・医・工・文・理・農の6分科大学と大学院よりなる総合大学が生まれ帝国大学と名付けられた。

 更に、明治30年(1897年)には京都帝国大学の設立に伴い、東京帝国大学と改称された。

 爾後明治40年に東北帝国大学、明治44年に九州帝国大学、大正7年に北海道帝国大学、昭和6年に大阪帝国大学、昭和14年に名古屋帝国大学が設立されたほか、戦後なくなったが大正13年に京城帝国大学、昭和3年に台北帝国大学がそれぞれ設立された。

 昭和22年(1974年)に至って、右の7帝国大学はそれぞれ、東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学と呼称が変更された。

 明治19年7月設立の学士会は以上の9大学の卒業生等を以って組織され、その事業の一つとして、当学士会館を建設し、その経営に当たっている。

平成3年(1991年)11月 学士会









五百羅漢道標

五百羅漢道標 文化2年再建銘

江東区指定有形民俗文化財
江東区猿江2-16 小名木川橋橋台北
平成18年3月27日 指定

 五百羅漢道標は、五百羅漢寺への道筋を案内する道標です。かつては、現在地より50メートルほど東にあった庚申堂の前に、川に面して建てられていました。正面には「是より五百らかん江右川[通] 八町ほど先へ参り[申]、右側には「此横道四ツ目橋通り亀戸天神□」とあり、亀戸天神への道も示しています。

 造立年代は不明ですが、左側面の銘文により享保16年(1731年)、寛政9年(1797年)、文化2年(1805年)の計三回再建されたことがわかります。現在の道標は文化2年に再建されたものです。

 五百羅漢寺とは、明治20年(1887年)まで現在の大島4-5付近にあった、天恩山五百羅漢寺(現在は目黒区に移転9のことです。堂内に安置された536体の羅漢像やらせん状の廊下をもつ三匝堂[さんそうどう](通称さざえ堂)が有名で、かめいどてんじんとならびおおくのさんけいきゃくをあつめました。

 この道標は、川沿いの道を歩く人はもちろんのこと、小名木川を船で訪れる人の目にも留まるように建てられていました。陸上と水上の両方の道を対象とした、水路に恵まれた江東区ならではの文化財です。

平成19年3月 江東区教育委員会







庚申堂と五百羅漢道標
明治時代の小名木川と河岸通り。
庚申堂と五百羅漢道標の建つ場所は、松の木(小名木川五本松)の先にあたる。






2015-12-03

睦月連理椿(むつまじきれんりのたまつばき)初演の跡

睦月連理椿(むつまじきれんりのたまつばき)初演の跡   たまつばき=椿の下に心 以下同様

名古屋市 錦 圓輪寺(愛知県名古屋市中区錦3丁目7)

 近世歌浄瑠璃中興の祖・宮古路豊後掾が名古屋に滞在中の享保十八年(1733)、闇森八幡社で起きた畳屋喜八と遊女小さんの心中未遂事件をもとに、「おさん伊八睦月連理椿」を書下して自演したもので、その初演が翌年正月、ここで興行されるや空前の大当りとなり、広小路が狭小路といわれる程の大入りを続けた。
 後に江戸へ下り、この新作を十八番の語り物に豊後節興隆の火の手をあげた。
 この地は延享二年(1745)、近世の名僧関通を開山として浄土宗円輪寺となり、今日に法燈を伝えている。
名古屋市教育委員会




2015-12-01

高槻城跡 2

高槻城跡 2

高槻城が記録に登場するのは、14世紀前半、入江左近将監春則が居城としてからである。

永禄12年(1569)には和田惟政が城主となったが、元亀4年(1573)、その子惟長と対立した高山飛騨守・右近父子が、和田氏を滅ぼして城主となった。キリシタンであった右近は、城内に天主教会堂を建てるなど布教に努め、天正9年(1581)には、イタリアの巡察使ヴァリニァーノを迎えて盛大な復活祭を催している。

その後は豊臣氏、徳川氏の直轄となり、大阪夏の陣(1615)後、内藤・土岐・岡部など譜代大名が城主となった。そして慶安2年(1649)、永井直清が3万6千石をもって入城、明治時代までの13代約230年にわたり、永井氏の藩政が続いた。

明治7年(1874)の鉄道敷設に伴って高槻城は破却され、今では城跡公園となり、市民の憩いの場となっている。昭和50年の調査では、本丸石垣の基礎部分を発掘、今も地中に遺構が眠っていることが明らかになった。本敷地内の石組みは、天守台や本丸御門の基礎石(根石)である。

高槻城跡は、昭和25年5月に府の史跡に指定されている。

昭和63年6月

大阪府教育委員会
高槻市教育委員会