高槻城跡 2
高槻城が記録に登場するのは、14世紀前半、入江左近将監春則が居城としてからである。
永禄12年(1569)には和田惟政が城主となったが、元亀4年(1573)、その子惟長と対立した高山飛騨守・右近父子が、和田氏を滅ぼして城主となった。キリシタンであった右近は、城内に天主教会堂を建てるなど布教に努め、天正9年(1581)には、イタリアの巡察使ヴァリニァーノを迎えて盛大な復活祭を催している。
その後は豊臣氏、徳川氏の直轄となり、大阪夏の陣(1615)後、内藤・土岐・岡部など譜代大名が城主となった。そして慶安2年(1649)、永井直清が3万6千石をもって入城、明治時代までの13代約230年にわたり、永井氏の藩政が続いた。
明治7年(1874)の鉄道敷設に伴って高槻城は破却され、今では城跡公園となり、市民の憩いの場となっている。昭和50年の調査では、本丸石垣の基礎部分を発掘、今も地中に遺構が眠っていることが明らかになった。本敷地内の石組みは、天守台や本丸御門の基礎石(根石)である。
高槻城跡は、昭和25年5月に府の史跡に指定されている。
昭和63年6月
大阪府教育委員会
高槻市教育委員会
0 件のコメント:
コメントを投稿