2014-11-14

御池橋 加賀藩邸跡 高瀬川西岸

御池橋 加賀藩邸跡 高瀬川西岸



此付近加賀藩邸跡

 この高瀬川の西側、河原町通にいたる間は、江戸時代、加賀(石川県)藩の藩邸があった。藩邸が初めて置かれたのは、江戸初期で、古絵図には高瀬川の橋に、加賀橋の名が残っている。藩邸には留守居役が詰め、町人の御用掛を指名して、各種の連絡事務に当たった。

 加賀藩は江戸時代外様の最大の大名で、百二万七千石。前田家が代々藩主。幕末の加賀藩は、激動する政局の中で活躍することは少なかった。五代綱紀は学問芸術を愛好して文治政治を行った英主で、東寺の古文書を整理するなど京都との関係は深く、この伝統はその後も受け継がれた。此の藩邸は、こうして文化的に京都と加賀を結びつける大きな役割を果たした。










河原町通

河原町通

江戸時代の初めに、高瀬川の開削や、鴨川の新堤の築造によって開かれた通り。江戸時代には北の方は葵祭りの行列が通ることから御車道と呼ばれ、二条より南の方は門倉通とも呼ばれました。明治以降、市役所やホテルが建ち、道路の拡幅や市電の開通で、京都のメインストリートとなりました。




このルビの振り方には違和感があります。


京都市役所




2014-11-04

電気鉄道事業発祥地

電気鉄道事業発祥地

日本最初の電気鉄道はこの地に発祥した
即ち明治28年2月1日京都電気鉄道株式会社はと東洞院通り七条下る鉄道踏切南側から伏見油掛通りまで6キロの間に軌道を敷電車の運転を始めた

この成功を機として我が国電気鉄道事業は漸次全国に広がり今日の新幹線電車にまで発展することになったのである

よってその80周年にあたり先人の偉業を讃えてこの記念碑を立てる





2014-10-27

上野駅東西自由通路建設地点の遺跡とパンダ橋由来

上野駅東西自由通路建設地点の遺跡とパンダ橋由来

上野駅東西自由通度建設地点の遺跡

台東区上野公園五番

 東京都立上野公園内は上野忍岡遺跡群として縄文時代から近世の遺跡が広がり、江戸時代には寛永寺境内地であった。本遺跡は上野台地の東南の縁辺に位置し、北西に東京文化会館構内・国立西洋美術館構内の遺跡が分布している。当地は近世には寛永11年(1634年)から寛永寺子院の常照院が存在していたが、1678年に凌雲院が移転してきた。凌雲院の境内は当地から東京文化会館と国立西洋美術館まで続き、18世紀中頃以降は徳川御三卿(田安・一橋・清水家)の墓所となっていた。国立西洋美術館構内の発掘調査では清水家の墓が発見され、東京文化会館においても墓が確認されている。

 当地は平成10年(1998年)に東西自由通路(現パンダ橋)建設に伴い調査を実施した。調査地の北東側に17世紀頃の「段切状遺構」(雛壇状の区画)が検出され、また「地下室」等も見られ常照院に関係するものと推測される。その後北半分は整地されて墓所となっており、19世紀頃の板石組の石槨墓(5基)や墓所を区画する石組が発見され、一橋家の墓所と推測される。遺物では「地下室」から中国製磁器、銅製灯明具、松竹・鶴亀文印刻の土師質(素焼き)皿などが出土した。

 近世以前では縄文時代前期、弥生時代末期頃、古墳時代後期、奈良・平安時代の住居跡が調査されており、古墳時代の住居跡は焼失して屋根材が炭化したまま残っていた。その他に道路状遺構や縄文時代の集石などが発見されている。火災住居跡からは完全な形の土師器坏、金環(金銀貼の銅製耳環)が出土し、付近の摺鉢山古墳等に関連した集落とも推測される。

 1998年発掘調査での出土遺物は平成12年度台東区有形文化財(考古資料)に登録されている。

 平成15年3月 台東区教育委員会



パンダ橋 


 パンダ橋は上野をイメージし、子供から大人まで広く愛されています。この橋の名は、温かみがありかつ覚えやすいことから、公募により決まりました。
 なお、この石は接触変成岩のひとつで、花崗岩マグマが上昇中に砂岩や頁岩などをとりこんでできたもので、白と黒のコントラストの面白さがパンダ石と呼ばれています。





2014-10-25

深川三十三間堂

深川三十三間堂


ウィキペディア 江戸三十三間堂 には次のようにあります。

京都東山の三十三間堂(蓮華王院)での通し矢の流行をうけて、寛永19年(1642年)11月、弓師備後という者が幕府より浅草の土地を拝領し、京都三十三間堂を模した堂を建立したのに始まる。翌寛永20年4月の落成では、将軍徳川家光の命により旗本吉田久馬助重信日置流印西派吉田重氏の嫡子)が射初め(いぞめ)を行った。その後元禄11年(1698年)の勅額火事により焼失したが、元禄14年(1701年)富岡八幡宮の東側(現東京都江東区富岡2丁目付近)に再建された。しかし明治5年(1872年)、江戸三十三間堂は廃されて堂宇は破却された。