2016-01-18

東京大学発祥の地

東京大学発祥の地

我が国大学の発祥地

 当学士会館の現在の所在地は我が国の大学発祥地である。

 すなわち、明治10年(1877年)4月12日に神田錦町3丁目に在った東京開成学校と神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併し、東京大学が創立された。

 創立当初は法学部・理学部・文学部・医学部の4学部を以って編成され、法学部・理学部・文学部の校舎は神田錦町3丁目の当地に設けられていた。

 明治18年(1885年)法学部には文学部中の政治学及び理財学科が移され法政学部と改称され、また理学部の一部を分割した工芸学部が置かれた。このようにして東京大学は徐々に充実され明治18年までに本郷への移転を完了した。

 従って、この地がわが国の大学発祥地すなわち東京大学発祥の地ということになる。

 明治19年3月東京大学は帝国大学と改称され、その時、それまで独立していた工部大学校と工芸学部が合併され工科大学となり、その後東京農林学校が農科大学として加えられ、法・医・工・文・理・農の6分科大学と大学院よりなる総合大学が生まれ帝国大学と名付けられた。

 更に、明治30年(1897年)には京都帝国大学の設立に伴い、東京帝国大学と改称された。

 爾後明治40年に東北帝国大学、明治44年に九州帝国大学、大正7年に北海道帝国大学、昭和6年に大阪帝国大学、昭和14年に名古屋帝国大学が設立されたほか、戦後なくなったが大正13年に京城帝国大学、昭和3年に台北帝国大学がそれぞれ設立された。

 昭和22年(1974年)に至って、右の7帝国大学はそれぞれ、東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学と呼称が変更された。

 明治19年7月設立の学士会は以上の9大学の卒業生等を以って組織され、その事業の一つとして、当学士会館を建設し、その経営に当たっている。

平成3年(1991年)11月 学士会









五百羅漢道標

五百羅漢道標 文化2年再建銘

江東区指定有形民俗文化財
江東区猿江2-16 小名木川橋橋台北
平成18年3月27日 指定

 五百羅漢道標は、五百羅漢寺への道筋を案内する道標です。かつては、現在地より50メートルほど東にあった庚申堂の前に、川に面して建てられていました。正面には「是より五百らかん江右川[通] 八町ほど先へ参り[申]、右側には「此横道四ツ目橋通り亀戸天神□」とあり、亀戸天神への道も示しています。

 造立年代は不明ですが、左側面の銘文により享保16年(1731年)、寛政9年(1797年)、文化2年(1805年)の計三回再建されたことがわかります。現在の道標は文化2年に再建されたものです。

 五百羅漢寺とは、明治20年(1887年)まで現在の大島4-5付近にあった、天恩山五百羅漢寺(現在は目黒区に移転9のことです。堂内に安置された536体の羅漢像やらせん状の廊下をもつ三匝堂[さんそうどう](通称さざえ堂)が有名で、かめいどてんじんとならびおおくのさんけいきゃくをあつめました。

 この道標は、川沿いの道を歩く人はもちろんのこと、小名木川を船で訪れる人の目にも留まるように建てられていました。陸上と水上の両方の道を対象とした、水路に恵まれた江東区ならではの文化財です。

平成19年3月 江東区教育委員会







庚申堂と五百羅漢道標
明治時代の小名木川と河岸通り。
庚申堂と五百羅漢道標の建つ場所は、松の木(小名木川五本松)の先にあたる。






有元 史郎 芝浦工業大学 創立者

有元 史郎 芝浦工業大学 創立者

1896年(明治29年)6月25日
 広島県尾道市土堂町に有元家の四男として生まれる

1925年(大正14年)3月    
 東京帝国大学工学部機械工学科卒業
 北村芳子と結婚(2男4女をもうける)
 この後、同大学経済学部と法学部、日本大学商科と文科を続けて修了し、5学士号を得る

1927年(昭和2年)
 芝浦工業大学の前身である東京高等工商学校を開設

1938年(昭和13年)5月30日
 逝去 (享年43)

 芝浦工業大学の創立者、有元史郎先生は弱冠30歳の時に、日本の工業技術興隆に必要とされた「実用的な技術と知識を併せ持つ技術者の育成」を目的として、東京高等工商学校を開設し、実学主義の教育を始められました。

 以来、芝浦工業大学は教育・研究活動を通じて多くの技術者・研究者を輩出し、工業技術の発展に貢献して、確固たる礎をきずいています。

 この有本史郎先生の功績に敬意を評し、2009年3月芝浦後者完成を記念して本胸像は制作されました。

 なお本胸像の台座は1935年、芝浦校舎旧館の施工を請け負った戸田建設の前身である戸田組の社長、二代戸田利兵衛氏が新築記念として寄贈した際のもので、台座上部が失われていた状態で旧本館に残されていました。この台座は当時の石職人が稲田石を丹精込めて削り出し、有本史郎先生のお名前を彫り込んだものでした。

 そこで芝浦工業大学の歴史を継承する想いを込めて、胸像の台座として使用しました。

製作者 瀬戸 剛 (GO SETO)
寄贈 戸田建設株式会社(胸像 2009年佳節)
    戸田組       (台座 1935年佳節





2015-12-03

睦月連理椿(むつまじきれんりのたまつばき)初演の跡

睦月連理椿(むつまじきれんりのたまつばき)初演の跡   たまつばき=椿の下に心 以下同様

名古屋市 錦 圓輪寺(愛知県名古屋市中区錦3丁目7)

 近世歌浄瑠璃中興の祖・宮古路豊後掾が名古屋に滞在中の享保十八年(1733)、闇森八幡社で起きた畳屋喜八と遊女小さんの心中未遂事件をもとに、「おさん伊八睦月連理椿」を書下して自演したもので、その初演が翌年正月、ここで興行されるや空前の大当りとなり、広小路が狭小路といわれる程の大入りを続けた。
 後に江戸へ下り、この新作を十八番の語り物に豊後節興隆の火の手をあげた。
 この地は延享二年(1745)、近世の名僧関通を開山として浄土宗円輪寺となり、今日に法燈を伝えている。
名古屋市教育委員会




2015-12-01

高槻城跡 2

高槻城跡 2

高槻城が記録に登場するのは、14世紀前半、入江左近将監春則が居城としてからである。

永禄12年(1569)には和田惟政が城主となったが、元亀4年(1573)、その子惟長と対立した高山飛騨守・右近父子が、和田氏を滅ぼして城主となった。キリシタンであった右近は、城内に天主教会堂を建てるなど布教に努め、天正9年(1581)には、イタリアの巡察使ヴァリニァーノを迎えて盛大な復活祭を催している。

その後は豊臣氏、徳川氏の直轄となり、大阪夏の陣(1615)後、内藤・土岐・岡部など譜代大名が城主となった。そして慶安2年(1649)、永井直清が3万6千石をもって入城、明治時代までの13代約230年にわたり、永井氏の藩政が続いた。

明治7年(1874)の鉄道敷設に伴って高槻城は破却され、今では城跡公園となり、市民の憩いの場となっている。昭和50年の調査では、本丸石垣の基礎部分を発掘、今も地中に遺構が眠っていることが明らかになった。本敷地内の石組みは、天守台や本丸御門の基礎石(根石)である。

高槻城跡は、昭和25年5月に府の史跡に指定されている。

昭和63年6月

大阪府教育委員会
高槻市教育委員会




高槻城跡 1 城跡公園

高槻城跡 1 城跡公園

高槻城跡は南北朝に姿を見せ 江戸期には八丁松原の景観と調和して名城とたたえられました。

城主のなかで高山右近はキリシタン大名で有名です。大阪京に近い城下町は漢詩人 藤井竹外ら多くの文人学者を育てました。城の石は明治初期今の高槻の町に発展する契機となった鉄道(JR)敷設に役立つなど高槻城跡には数々のドラマが秘められています。






高槻城跡公園の 高山右近像

高槻城跡公園の 高山右近像

高山右近

高山右近は、戦国末期の高槻城主。キリシタン大名であり、天文21年(1552)頃に、摂津高山(現豊能郡豊能町)で生まれたとされています。

右近と父・高山飛騨守は、主君和田惟政の敵荒木村重とむすび、惟政の遺子惟長を追放し、元亀4年(1573) 右近は高槻城主となりました。摂津の国主である荒木村重が織田信長に反旗をひるがえした天正6年(1578)、村重へ子や妹を人質にだしていた右近に、信長はオルガンティーノ司祭を使いとし、降伏をすすめました。これに対し右近は、苦悩の末開城したといわれています。その後右近は、山崎合戦には、秀吉に仕え功績を挙げました。

右近が高槻城主であったのは、播磨明石(明石市)に移封されるまでの12年間でした。

右近は、千利休の七哲の一人である茶人でもあり、「利休極上一の弟子也」ともうたわれています。。天正14年頃秀吉と利休を茶会に招いたこともあり、南坊と号していました。

 キリシタン大名としての右近は、天正2年(1574)城の側に壮麗な教会を建て、キリスト教の伝道に努めました。当時2万5千人の領民の内1万8千人(約72%)がキリシタンになったといわれています。

秀吉が、バテレン追放令を発したとき、右近は改宗を拒否し、領地を没収されています。禁教令をだした徳川幕府により、慶長19年(1614)10月、国外追放処分を受けました。マニラ到着後40日ほどで熱病におかされ、慶長20年2月3日になくなっています。

平成8年3月
高槻市教育委員会









2015-11-30

高槻 しろあと歴史館

高槻 しろあと歴史館


常設展示を見ました。
説明ボランティアの方に丁寧に解説していただきました。
朝一番だったので、マンツーマンでした。

詳細はしろあと歴史館のHPで。



















旧笹井家住宅

旧笹井家住宅

この町家は江戸時代中頃に建築されたもので、昭和47年9月12日、高槻市指定文化財の建造物第1号に指定されました。元の所在地は高槻城下の西北に当たる高槻町(旧紺屋町)です。

解説はこちらで (高槻市HP)