2014-05-17

1945年の浜町の航空写真

浜町のきくの屋の記録写真。

1945年の浜町の航空写真です。
隅田川の手前、清洲橋通りあたりです。
古い明治座がありますね。
おそらく木造建築はすべて焼失。非戦闘員に対する攻撃でしたね。国際法上はいかがなものでしょう。国家総動員法があったので国民全部軍人扱いだったのでしょうか。軍服は来ていなかったはずですが。


にほんのクスノキ


にほんのクスノキ

樹齢100年とも推定されるこのクスノキは、日本橋より都岡移動、山陽道へつながる長崎街道の入り口ともいえる「北九州・旧黒崎」宿の街道脇に、長年に亘って2本並んで佇んでいたものです。その堂々とした姿はまさに御神木と呼ぶに相応しいもので、五街道の起点に再生された「日本橋室町野村ビル」の守神として、約1,000kmの道のりを経て移植されました。敷地の北西と南東に植えられた2本のクスノキが、一方は旧中山道と旧日光街道の分岐点に立ち、これからも多くの人々の往来を見守り、一方は再興された福徳神社の御神木として日本橋の町の未来を見守ってくれることを願っています。





2014-05-17 今夜の料理 マダラの野菜あんかけと白菜とお揚げのやんわり煮

今夜は マダラの野菜あんかけと白菜とお揚げのやんわり煮


マダラのほう

マダラは塩コショウして小麦粉をまぶします。

これをサラダオイルを熱したフライパンで焼きます。焼き目が着いたらひっくり返しお酒を少し入れて蓋をして蒸し焼きですね。

火が通ったら器に移します。

今度はフライパンにダシと醤油みりん、砂糖を入れ玉ねぎの細切りとにんじんの細切り、ピーマンの細切りを加え煮てゆきます。
最後に水溶き片栗粉でとろみ付け。

さっきのマダラにかけて出来上がり。


白菜のほう

白菜をざく切り、にんじんを半分切りのななめ切り。
玉ねぎを櫛形。これは多めに入れます。

出汁で煮てあくを取ったら醤油みりん酒砂糖を入れ柔らかくなるように煮ます。


20140516 夕食 チキンのハーブソテーとトマトスープ


チキンのハーブソテーとトマトスープ

今夜はチキンですね。

鶏肉は厚みが均一になるように切り開きます。
フォークで身を突いた後、ハーブソルトとおろしにんにくを揉みこんでしばらく置きましょう。

次に小麦粉をまぶして、熱したオリーブオイルのフライパンで皮目から入れます。
焼き色がついてきたらひっくり返し、酒をふりかけ蓋をします。蒸し焼きです。
火が通ったら皿に盛り、フライパンにバター、醤油、みりんでソースを造り、掛けます。

キャベツを付け合わせに。

トマトスープのほう
じゃがいもを1センチ角に切って水にさらして水けを切ります。
シャウエッセンを小口切りにしたものと一緒に、小鍋でこれもオリーブオイルですこし炒め、水を入れます。煮立ったら灰汁取り。
固形コンソメスープとトマトスープをいれ蓋をして煮ます。



2014-05-10

浅草橋南詰 郡代屋敷跡

浅草橋の南詰に交番があります。その前に 郡代屋敷跡 の 案内があります。
夕方になると浅草橋したの屋形船に灯が入り川面に美しく映ります。
橋の北詰には浅草見附跡の碑もあります。


郡代屋敷跡

所在地 中央区日本橋馬喰町2丁目

 江戸時代に、主として関東の幕府直轄領の年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった場所です。

 関東郡代は、天正18年(1590)徳川家康から代官頭に任命された伊奈忠次の次男忠治が、寛永19年(1642)に関東初代間の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(1688-1704)には関東郡代という名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。

 その役宅は、初め江戸城の常盤橋門内にありましたが、明暦の大火(1657)による焼失後、この地に移り、馬喰町郡代屋敷と称されました。

 寛政4年(1792)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねることとなり、この地に居住しました。文化3年(1806)に関東郡代制が廃止され、さらに屋敷が消失した後には、代官の拝領地となって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。

平成20年3月 中央区教育委員会