2014-05-02

 永代の名は、深川に造られた永代寺の名に由来する

 永代の名は、深川に造られた永代寺の名に由来する。
 元禄11年(1698年)、日本橋と深川を結ぶ橋として寛永寺本堂の余材をつかって永代橋がかけられた。
 その場所は、現在の橋より100メートルほど上流で、”深川の大渡し”があったところである。
 橋の脇には船〇番所があったために大船の通行を考えて、橋脚を高くしてあった。
 はじめ幕府直轄の」橋であったが、後には住民にまかされて、橋賃を徴収して管理と維持にあてた。しかし文化4年(1807年)8月の深川八幡の祭礼に、欄干の一部が崩れて多数の死者を生じる事件がおこっている。
 その後、かけかえが行われたが明治30年(1897年)になって、鉄製のトラス橋がつくられ、橋の位置も現在地に移された。しかし、”関東大震災”(1923年)には、橋床の木造部分が焼け〇○被害をうけたが、大震災復興事業の最初の工事として、大正15年(1926年)に、重量感あふれるアーチ橋にかけかえられ、現在に至っている。



八丁堀与力同心組屋敷跡 すずらん通りの京華スクエア

八丁堀与力同心組屋敷跡 すずらん通りの京華スクエア

八丁堀の与力・同心組屋敷跡

所在地 中央区八丁堀ほか

 江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永12年(1635)に江戸城化の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心組屋敷の町が成立しました。その範囲は茅場町から八丁堀一帯に集中しています。

 八丁堀と言えば捕り物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた、江戸町奉行配下の与力・同心の町でした。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。着流に羽織姿で懐手、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていました。

 初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力10人、同心50人から始まってのち、南北両町奉行が成立すると与力50人、同心280人と増加し、両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行200石、屋敷は300~500坪、同心は30俵二人扶持で、100坪ほどの屋敷地でした。

 これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍したのですが、生活費を得るため町民に屋敷地を貸すものも多く、与力で歌人の加藤枝直・千陰父子や医者で歌人の井上文雄だどの文化人や学書を輩出した町としても知られています。





永代橋から佃島のマンション群を見る

永代橋から佃島のマンション群を見る
堤防上の桜にかわって、今は護岸したの遊歩道にヒラトツツジが咲いている。





2014-04-30

今日の料理 親子とじ、白菜浸しときゅうりの酢の物 2014-04-30

今日の料理です。

今日は、親子丼と白菜お浸し ですが、もう一品付けます。

白菜をざく切りし少し茹でます。出来たらざるに取り冷まします。
軽く水けを絞って器に盛り、鰹節を掛けます。
後はお好みで醤油でも。

親子丼のほうは、みんな帰りがまちまちなので、どんぶりにはしないで、親子とじにします。ご飯にはかけませんよ。

鶏肉はそぎ切りにし、出汁、しょうゆ、みりん、酒、砂糖を合わせてねべで熱します。
長ネギを縦半分に切ってさらに斜め薄切りにしたものと鶏肉を鍋に入れます。
灰汁を取ってから溶き卵を入れます。

おまけの一品。きゅうりとちりめんの酢の物。

きゅうりの薄切りに塩を振り、しばらく置いてから軽く水で塩気を落とし絞ります。
ボウルに入れ、そこにちりめんじゃこをいれすし酢を掛けて和えます。

写真の手前の小さな器は鰹節が入っています。自分でかくと粉が多くなってしまいますがおいしいです。これは白菜にかける予定。すりゴマもあります。