2018-07-16

千石稲荷大明神 長野市南石堂町

千石稲荷大明神
長野市南石堂町





千石稲荷神社の由来

 抑抑(そもそも)、古くは善光寺平に農耕が始まった時に遡り、その名も知れぬままこの地域の農耕の神として広く信仰されていたもので昭和15年、駅前土地区画整理組合から、敷地の提供を受け現在の地に定着しました。

 千石の名は、古くから善光寺領の石高を千石と言われ、又この稲荷神社の地が千歳町、千石町、末広町に挟まれた位置にふさわしい縁起の良い名で知られております。

 千石稲荷は農耕、商いのかみとして有名な伏見稲荷の御分身として、地名の千歳(長寿、病気平癒)石堂(家内安全、身体健康)末広(家運隆盛、商売繁盛)の名に稲荷(実る)の願望が叶うという意味が千石稲荷の名に織り込んだものです。

 昔より、千石とは、収穫の多きを意味し、千石船など豊かな感じを表現する名として使われております。

(紀元貮千六百年奉賛会の記録より)

2018-05-14

旧信越本線碓氷第3橋梁(めがね橋)





国指定重要文化財
碓氷峠鉄道施設
碓氷第3橋梁(めがね橋)
平成5年8月17日 指定


 高崎~横川間は明治18年(1885年)10月、軽井沢~直江津間は、21年にそれぞれ開業しましたが、碓氷線と呼ばれた横川~軽井沢間は、碓氷峠が急勾配のため、路線決定にに紆余曲折し、明治26年(1893年)4月開業となり、高崎~直江津間の全線が開業しました。

 横河~軽井沢間の11.2キロメートルは、千分の66.7という最急勾配のため、ドイツの山岳鉄道で実用化されていた、アブト(=アプト)式が採用され、昭和38年まで走り続けました。

 この碓氷線には、当時の土木技術の粋を集めて、26のトンネルと18の橋梁が造られましたが、なかでもこの碓氷第3橋梁は2百万個以上のレンガを使用した、国内でも最大のレンガ造アーチ橋です。

文化庁
安中市教育委員会




旧信越本線の碓氷第3アーチ
1.建設
  明治25年12月竣工
2.設計者
  イギリス人 パゥエル技師
  日本人   古川晴一技師
3.構造
  煉瓦造アーチ橋(径間数4、長さ87.7メートル)
4.建設してからのあゆみ
碓氷の峻険をこえるため。「ドイツ」の「ハルツ山鉄道」のアプト式を採用して横川、軽井沢間が明治24年から26年にかけて建設されました。
その、こう配は1000分の66.7という国鉄最急こう配です。これを昭和38年9月、速度改良のため新線の完成と同時に使用廃止になった構造物の中では最大のものです。すぐれた技術と芸術的な美しさは今なおその威容を残しております。ここに往時を偲ぶ記念物として、その業績を長くたたえたいものです。
昭和45年1月1日
高崎鉄道管理局
松井田町教育委員会









2018-04-25

碓日嶺鐡道碑(復元模造)

碓日嶺鐡道碑(復元模造)


軽井沢駅舎脇にある碓日嶺鐡道碑(復元模造)

陸軍大将従二位勲一等伯爵山県有朋 篆額
従四位勲四等文学博士 重野安繹 撰文


この石碑の由来については、「碓氷峠に鉄道の復活を主張するホームページ」に詳しくあるのでそちらを是非ご覧ください。

石碑についての直接リンクはこちら「碓日嶺鉄道碑

碓氷線の建設については「碓氷線の廃墟に眠る鐡道碑」に詳しい説明があります。碑文の解読も。


碓氷峠鉄道文化むらに展示されている拓本の複写
破損前の現物からの拓本でしょうか。

草軽電鉄電気機関車

草軽電鉄電気機関車

 この機関車はデキ12型機関車といいアメリカのジェフェリー社で大正9年に製作したハンドブレーキ常用、非常用電気ブレーキ付きという鉱山用のトロッコを改造したのもである。

 大正4年7月より草軽軽便鉄道営業を開始、大正15年軽井沢~草津間(55.5キロ)の電化が完成してから、昭和37年1月31日路線を廃止するまでの約35年の間、地元民の足として、また、旅行者・避暑客の良き案内人として親しまれた電気機関車である。

 南側の一対の車輪は、同機関車が牽引した客車の車輪である。

軽井沢町
軽井沢町教育委員会
軽井沢町文化財審議委員会





 






松井須磨子の養家跡(推定地)

松井須磨子の養家跡(推定地)長野県上田市松尾町

松井須磨子は、明治から大正期の大女優で、日本初の近代演劇女優です。

須磨子は、明治19年に松代の旧家にて生まれました。6歳の時に、叔母の嫁ぎ先である上田で洋品店を営む商家へと養女に出されています。

そして上田女子尋常高等小学校へ通う10年間、須磨子は上田で暮らしました。

多感な少女時代を過ごした養家の場所は記録が残っておらず不明ですが、当時の地図からここだったと推測されます。

その後、上京して坪内逍遥が主宰する文芸協会の演劇研究所に入所した須磨子は、明治44年に「ハムレット」のオフィーリア役にてデビューし、華々しいスターの道を歩み始めます。大正2年には熱烈な恋愛関係にあった島村抱月とともに「芸術座」を設立。トルストイの「復活」での劇中歌「カチューシャの歌」など、次々と大ヒット作を世に送り出し続けました。