2016-01-18

有元 史郎 芝浦工業大学 創立者

有元 史郎 芝浦工業大学 創立者

1896年(明治29年)6月25日
 広島県尾道市土堂町に有元家の四男として生まれる

1925年(大正14年)3月    
 東京帝国大学工学部機械工学科卒業
 北村芳子と結婚(2男4女をもうける)
 この後、同大学経済学部と法学部、日本大学商科と文科を続けて修了し、5学士号を得る

1927年(昭和2年)
 芝浦工業大学の前身である東京高等工商学校を開設

1938年(昭和13年)5月30日
 逝去 (享年43)

 芝浦工業大学の創立者、有元史郎先生は弱冠30歳の時に、日本の工業技術興隆に必要とされた「実用的な技術と知識を併せ持つ技術者の育成」を目的として、東京高等工商学校を開設し、実学主義の教育を始められました。

 以来、芝浦工業大学は教育・研究活動を通じて多くの技術者・研究者を輩出し、工業技術の発展に貢献して、確固たる礎をきずいています。

 この有本史郎先生の功績に敬意を評し、2009年3月芝浦後者完成を記念して本胸像は制作されました。

 なお本胸像の台座は1935年、芝浦校舎旧館の施工を請け負った戸田建設の前身である戸田組の社長、二代戸田利兵衛氏が新築記念として寄贈した際のもので、台座上部が失われていた状態で旧本館に残されていました。この台座は当時の石職人が稲田石を丹精込めて削り出し、有本史郎先生のお名前を彫り込んだものでした。

 そこで芝浦工業大学の歴史を継承する想いを込めて、胸像の台座として使用しました。

製作者 瀬戸 剛 (GO SETO)
寄贈 戸田建設株式会社(胸像 2009年佳節)
    戸田組       (台座 1935年佳節





2015-12-03

睦月連理椿(むつまじきれんりのたまつばき)初演の跡

睦月連理椿(むつまじきれんりのたまつばき)初演の跡   たまつばき=椿の下に心 以下同様

名古屋市 錦 圓輪寺(愛知県名古屋市中区錦3丁目7)

 近世歌浄瑠璃中興の祖・宮古路豊後掾が名古屋に滞在中の享保十八年(1733)、闇森八幡社で起きた畳屋喜八と遊女小さんの心中未遂事件をもとに、「おさん伊八睦月連理椿」を書下して自演したもので、その初演が翌年正月、ここで興行されるや空前の大当りとなり、広小路が狭小路といわれる程の大入りを続けた。
 後に江戸へ下り、この新作を十八番の語り物に豊後節興隆の火の手をあげた。
 この地は延享二年(1745)、近世の名僧関通を開山として浄土宗円輪寺となり、今日に法燈を伝えている。
名古屋市教育委員会




2015-12-01

高槻城跡 2

高槻城跡 2

高槻城が記録に登場するのは、14世紀前半、入江左近将監春則が居城としてからである。

永禄12年(1569)には和田惟政が城主となったが、元亀4年(1573)、その子惟長と対立した高山飛騨守・右近父子が、和田氏を滅ぼして城主となった。キリシタンであった右近は、城内に天主教会堂を建てるなど布教に努め、天正9年(1581)には、イタリアの巡察使ヴァリニァーノを迎えて盛大な復活祭を催している。

その後は豊臣氏、徳川氏の直轄となり、大阪夏の陣(1615)後、内藤・土岐・岡部など譜代大名が城主となった。そして慶安2年(1649)、永井直清が3万6千石をもって入城、明治時代までの13代約230年にわたり、永井氏の藩政が続いた。

明治7年(1874)の鉄道敷設に伴って高槻城は破却され、今では城跡公園となり、市民の憩いの場となっている。昭和50年の調査では、本丸石垣の基礎部分を発掘、今も地中に遺構が眠っていることが明らかになった。本敷地内の石組みは、天守台や本丸御門の基礎石(根石)である。

高槻城跡は、昭和25年5月に府の史跡に指定されている。

昭和63年6月

大阪府教育委員会
高槻市教育委員会




高槻城跡 1 城跡公園

高槻城跡 1 城跡公園

高槻城跡は南北朝に姿を見せ 江戸期には八丁松原の景観と調和して名城とたたえられました。

城主のなかで高山右近はキリシタン大名で有名です。大阪京に近い城下町は漢詩人 藤井竹外ら多くの文人学者を育てました。城の石は明治初期今の高槻の町に発展する契機となった鉄道(JR)敷設に役立つなど高槻城跡には数々のドラマが秘められています。






高槻城跡公園の 高山右近像

高槻城跡公園の 高山右近像

高山右近

高山右近は、戦国末期の高槻城主。キリシタン大名であり、天文21年(1552)頃に、摂津高山(現豊能郡豊能町)で生まれたとされています。

右近と父・高山飛騨守は、主君和田惟政の敵荒木村重とむすび、惟政の遺子惟長を追放し、元亀4年(1573) 右近は高槻城主となりました。摂津の国主である荒木村重が織田信長に反旗をひるがえした天正6年(1578)、村重へ子や妹を人質にだしていた右近に、信長はオルガンティーノ司祭を使いとし、降伏をすすめました。これに対し右近は、苦悩の末開城したといわれています。その後右近は、山崎合戦には、秀吉に仕え功績を挙げました。

右近が高槻城主であったのは、播磨明石(明石市)に移封されるまでの12年間でした。

右近は、千利休の七哲の一人である茶人でもあり、「利休極上一の弟子也」ともうたわれています。。天正14年頃秀吉と利休を茶会に招いたこともあり、南坊と号していました。

 キリシタン大名としての右近は、天正2年(1574)城の側に壮麗な教会を建て、キリスト教の伝道に努めました。当時2万5千人の領民の内1万8千人(約72%)がキリシタンになったといわれています。

秀吉が、バテレン追放令を発したとき、右近は改宗を拒否し、領地を没収されています。禁教令をだした徳川幕府により、慶長19年(1614)10月、国外追放処分を受けました。マニラ到着後40日ほどで熱病におかされ、慶長20年2月3日になくなっています。

平成8年3月
高槻市教育委員会