2019-04-27

総理大臣官邸敷地の沿革

総理大臣官邸敷地の沿革

 この敷地は、武蔵野台地の東縁部に位置し、眼下には近代の初めまで溜池が広がり、近世中期には風光明媚な池として人々の憩いの景観となっていたといわれています。また、縄文時代から近世に至るさまざまな時代における人々の営みがあったことが、敷地内で痕跡として確認されています。17世紀後半には敷地内は南北に二分割され、北側には旗本屋敷があり、その後信濃飯山藩本多家上屋敷、丹後峰山藩京極家上屋敷と移り変わります。一方、南側は越後村上藩内藤家中屋敷でした。明治維新後、敷地は一橋徳川家の居宅として使用され、明治3年に鍋島家の所有となります。明治25年に完成したれんが造りの洋館は大正12年9月の関東大震災により大きな被害を受け、その後復興局へ売却されています。大正15年、震災復興に伴う中央諸官衛計画の一環として、麹町区永田町二丁目一番地旧鍋島邸跡地に総理大臣官邸を新営することとなりました。官邸は昭和4年に完成しましたが、当時は「内閣総理大臣官舎」と呼ばれており、門には表札がかかっていました。その後、官邸の老朽化、狭隘化が顕著となってきたことなどから、昭和62年、閣議了解により、従来の官邸敷地及びその西隣一帯の区域に新たな総理大臣官邸を整備することになりました。新官邸は平成14年に、また、旧官邸を改修した総理大臣新公邸は平成17年に完成し、現在に至っています。

平成17年10月         
                 設置:総理大臣官邸
                 監修:千代田区教育委員会






赤木正雄博士の像

赤木正雄博士の像

文化勲章受章文化功労者農学博士赤木正雄君は兵庫県豊岡の人である 第一高等学校に学び新渡戸稲造博士の言に感じて志を砂防に立て 爾来官にあっては初代内務省第3技術課長とし 出でては全国治水砂防協会の創立者として現在まで60有餘年君の歩んだ途は砂防の一路である わが国の砂防は君により初めて方途が確立し 国会議員としての君の発言は砂防を国政に重からしめた 今回全国治水砂防協会員の総意により君の建設した砂防会館の前に寿像を立て以て君の志を後世に伝えんとするものである

昭和46年12月2日
全国治水砂防協会長 田中角栄






溜池発祥の碑

溜池発祥の碑

 溜池は江戸時代のはじめ、江戸城の防備を兼ねた外堀兼用の上水源として作られ水道の発祥地ともなり、徳川秀忠時代には鯉、鮒を放し蓮を植えて上野の不忍池に匹敵する江戸の名所となった。徳川家光は遊泳したとも伝えられ、江戸後期には日枝神社より赤坂4丁目に通じる料金を取った銭取橋が架設され「麦とろ家」数軒と出店で、にぎわったと伝われる。
 
 明治8年より埋め立てに着手し44年に完成したが、明治21年12月には赤坂溜池町が創立され、明治42年に市電が開通し、大正10年5月に正式な町会として溜池町会が発足し、溜池角の小松ビルは元は演伎座と云う芝居館として人気を煽り東京オリンピック以後はビル街として発展し、町会名も「赤坂溜池町会」と改称し今日に到り、地下鉄新駅「溜池山王駅」の開通を記念し建立とした。(赤坂溜池町会・文責)

平成9年8月吉日 東京都 港区

2019-04-09

子者清水

子者清水

 江戸幕府は下総国ほかに野馬を育てる牧を設けました。現在の習志野台一帯は広大な下野牧の一部でありました。その一角に、「子は清水、親は酒」という民話が伝えられる泉がありました。享保7年(1722年)の小金下野牧図には「コハ清水ト云出水有」と記され、この近辺にあった泉はすでに”こは清水”と呼ばれていたことがわかります。明治以降、牧が陸軍演習場になると、泉は軍馬の水吞み場として整備されました。昭和3年の習志野演習場図には「子者清水」とあります。戦後、演習場は畑地として開拓され、子者清水は生活用水に利用されました。子供達の遊び場でもありましたが、昭和30年代後半の習志野台団地の造成で住宅街となりました。地形は変わりましたが3丁目3番3号棟付近からこの辺りにありました。


川舟「こうりんぼう」と十二沢川

川舟「こうりんぼう」と十二沢川
 
この地は、昭和初期まで十二沢川と魚野川の合流地点でした。
 左の写真は、当時の合流点付近の写真で昔の川辺の状況とこうりんぼうの様子をうかがうことが出来ます。
 十二沢川の河川改修工事により、写真に映し出されている石垣が発見されました。記念として石垣の一部をここに復元します。平成21年5月









道元禅師示寂の地

道元禅師示寂の地
 この地は、曹洞宗の開祖道元禅師が生涯を閉じたところである。
 道元禅師は、正治2年(1200年)に京都で生まれ、比叡山で出家の後、建仁寺の栄西の門に入って禅を学び、貞応2年(1223年)に入宋した。帰国後、建仁寺に足をとどめたが、その後、深草に興聖寺(後に宇治に移る)を建て、教化活動を続けた。晩年にいたって、権勢逃れ、越前(福井県)の地に永平寺を創建し、釈迦正伝の仏法である坐禅の厳格な宋風を樹立した。
 建長5年(1253年)病の療養のために弟子懐奘を伴って上洛し、この地(下京区高辻通西洞院西入)にあった俗弟子寛念の屋敷に滞在し同年8月に54歳の生涯を閉じた。



2018-11-21

水戸弘道館

水戸弘道館 

江戸時代の総合大学 
国指定特別史跡 重要文化財

(茨城県営都市公園HPより)

沿革 
 旧水戸藩の藩校である弘道館は、徳川斉昭が推進した藩政改革の重要施設の一つとして開設された。
 
弘道館建学の精神
神儒一致 忠孝一致 文武一致 学問事業一致 治教一致

開学
仮開学 天保12年 1841年 8月1日
本開学 安政 4年 1857年 5月9日

藩士とその子弟が学んだ 入学年齢は15歳卒業はなし
学問と武芸の両方が重視された

多様な科目
学問では 儒学 礼儀 歴史 天文 数学 地図 和歌 音楽など
武芸では 剣術 槍  柔術 兵学 鉄砲 馬術 水泳など

幕末の動乱を経て 明治5年 1872年 の学制発布により閉鎖

幾度の戦火を免れた正門、正庁及び至善堂は、昭和39年 1964年 に国の重要文化財に指定された。

館内には、藩主が臨席して文武の大試験が行われた正庁の間や對試場がある。
徳川慶喜が幼いころに学び、大政奉還の後に恭順謹慎生活を送った至善堂がある。

厳冬の中いち早く咲く蝋梅や斉昭が愛した幾種もの梅、鮮黄色の小花を集めてつける山茱萸。斉昭夫人ゆかりの左近の桜。夏の日差しに映える百日紅」など、四季折々の美しい花や樹木と出会える。

ビデオ「弘道館探訪」へのリンク












2018-07-16

千石稲荷大明神 長野市南石堂町

千石稲荷大明神
長野市南石堂町





千石稲荷神社の由来

 抑抑(そもそも)、古くは善光寺平に農耕が始まった時に遡り、その名も知れぬままこの地域の農耕の神として広く信仰されていたもので昭和15年、駅前土地区画整理組合から、敷地の提供を受け現在の地に定着しました。

 千石の名は、古くから善光寺領の石高を千石と言われ、又この稲荷神社の地が千歳町、千石町、末広町に挟まれた位置にふさわしい縁起の良い名で知られております。

 千石稲荷は農耕、商いのかみとして有名な伏見稲荷の御分身として、地名の千歳(長寿、病気平癒)石堂(家内安全、身体健康)末広(家運隆盛、商売繁盛)の名に稲荷(実る)の願望が叶うという意味が千石稲荷の名に織り込んだものです。

 昔より、千石とは、収穫の多きを意味し、千石船など豊かな感じを表現する名として使われております。

(紀元貮千六百年奉賛会の記録より)

2018-05-14

旧信越本線碓氷第3橋梁(めがね橋)





国指定重要文化財
碓氷峠鉄道施設
碓氷第3橋梁(めがね橋)
平成5年8月17日 指定


 高崎~横川間は明治18年(1885年)10月、軽井沢~直江津間は、21年にそれぞれ開業しましたが、碓氷線と呼ばれた横川~軽井沢間は、碓氷峠が急勾配のため、路線決定にに紆余曲折し、明治26年(1893年)4月開業となり、高崎~直江津間の全線が開業しました。

 横河~軽井沢間の11.2キロメートルは、千分の66.7という最急勾配のため、ドイツの山岳鉄道で実用化されていた、アブト(=アプト)式が採用され、昭和38年まで走り続けました。

 この碓氷線には、当時の土木技術の粋を集めて、26のトンネルと18の橋梁が造られましたが、なかでもこの碓氷第3橋梁は2百万個以上のレンガを使用した、国内でも最大のレンガ造アーチ橋です。

文化庁
安中市教育委員会




旧信越本線の碓氷第3アーチ
1.建設
  明治25年12月竣工
2.設計者
  イギリス人 パゥエル技師
  日本人   古川晴一技師
3.構造
  煉瓦造アーチ橋(径間数4、長さ87.7メートル)
4.建設してからのあゆみ
碓氷の峻険をこえるため。「ドイツ」の「ハルツ山鉄道」のアプト式を採用して横川、軽井沢間が明治24年から26年にかけて建設されました。
その、こう配は1000分の66.7という国鉄最急こう配です。これを昭和38年9月、速度改良のため新線の完成と同時に使用廃止になった構造物の中では最大のものです。すぐれた技術と芸術的な美しさは今なおその威容を残しております。ここに往時を偲ぶ記念物として、その業績を長くたたえたいものです。
昭和45年1月1日
高崎鉄道管理局
松井田町教育委員会