2019-04-09

子者清水

子者清水

 江戸幕府は下総国ほかに野馬を育てる牧を設けました。現在の習志野台一帯は広大な下野牧の一部でありました。その一角に、「子は清水、親は酒」という民話が伝えられる泉がありました。享保7年(1722年)の小金下野牧図には「コハ清水ト云出水有」と記され、この近辺にあった泉はすでに”こは清水”と呼ばれていたことがわかります。明治以降、牧が陸軍演習場になると、泉は軍馬の水吞み場として整備されました。昭和3年の習志野演習場図には「子者清水」とあります。戦後、演習場は畑地として開拓され、子者清水は生活用水に利用されました。子供達の遊び場でもありましたが、昭和30年代後半の習志野台団地の造成で住宅街となりました。地形は変わりましたが3丁目3番3号棟付近からこの辺りにありました。


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