2015-03-31

東京高等工藝學校創設の地

東京高等工藝學校創設の地
東京都港区芝浦3丁目3番6号
東京工業大学付属
科学技術高等学校内

 東京高等工藝學校は、工業製品を美しく、かつ機能的に創造する技術を学ぶ高等教育機関として、大正10年12月この地に創設されました。

 常に日本の工芸産業教育の指導的地位にあり、また多くの留学生を教育するなど、工芸技術の発展に貢献し、その出身者は「芝浦出身」という愛称で重用されました。

 また、東京高等工藝學校は、わが国ラジオ放送発祥の地でもあります。大正14年3月には、その図書館から日本で最初のラジオ電波が送り出され、日本放送協会は当地に「放送記念碑」を建立しております。

 しかし、昭和20年5月の空襲により、校舎、工場等が灰燼に帰したため、戦後同年10月、学校当局は当地での再建を断念し千葉県松戸市に移転、昭和24年の学制改革により新制大学の千葉大学工芸学部となりました。昭和26年、工学部と改組、昭和39年千葉市弥生町に移転しましたが、当地に根ざした「実利と美とを一体に」という建学の精神は、脈々と受け継がれています。

 後方に見える青銅と黒御影石の碑は、当地にあった東京高等工藝學校(現千葉大学工学部)を記念し、工芸産業教育発祥の地として同窓生有志が建立したものです。

 聖火を中心にマーキュリーの羽をあしらい、それにハンマーと筆を組み合わせた校章をかたどっています。

平成17年10月 港区教育委員会





 



2015-03-07

鉄道唱歌の碑 JR新橋駅汐留口

鉄道唱歌の碑

鉄道唱歌の作者大和田建樹先生は安政四年(一八五七)四月二十九日愛媛縣宇和島に生まる幼少國漢文に親しみ十五歳以降特に國学に志した明治七年十八歳の秋上京遊学十七年東京大学講師翌年高等師範学校教授二十四年辞任爾来又官任せず門を開いて歌文を教え地方に出講し行餘謡曲能舞を嗜む学は漢洋に亘り著述は辞典註釋詩歌随筆百五十冊を越えたが三十二年鉄道唱歌東海道山陽九州奥州線磐城線北陸地方關西参宮南海各線の五冊を連刊就中汽笛一声新橋をの一句で始まる東海道の部は普く世に流布して津々浦々に歌われ鉄道交通の普及宣傳に絶大の貢献をなした先生明治四十三年十月一日に没す享年五十四今年恰も生誕百年に當って先生の遺弟待宵舎同人の発起により東海道鉄道唱歌にゆかり深い新橋驛構内に碑を建て永く先生を記念する 昭和三十二年十月安倍能成




汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として



D51機関車の動輪
D51機関車は1936年(昭和11年)に誕生した機関車です。10年間で1115両と、日本のSLでは一形式で最多の両数が製造され、戦前、・戦後を通じて全国各地で、主に貨物用として活躍しました。「デゴイチ」などの愛称で親しまれ、蒸気機関車の代名詞にもなり、1975年(昭和50年)のSL最後の運転まで重用され、使命を全うしました。展示されている動輪は、1976年(昭和51年)の総武・横須賀線乗り入れ記念として、北海道の札幌鉄道管理局から譲り受け、鉄道発祥の地である新橋駅に設置したものです。

鉄道唱歌の碑
1957年(昭和32年)10月4日の鉄道開通85周年記念日に鉄道唱歌の作詞家、大和田建樹生誕100年を記念して新橋駅に建立されました。鉄道唱歌は、長い間私たちのために働いた鉄道を称えるだけでなく、明治時代の文学者大和田建樹自身が実際に汽車に乗ってつぶさに日本国内を旅行した見聞録です。



2015-02-07

旧芝給水所の遺構 と 芝給水所の歴史


旧芝給水所の遺構

これらの遺構(保存施設)は、明治31年旧給水所で施設の一部として実際に使用されていたもので、近代水道の建設に従事した当時の関係者の情熱や技術力を後世に伝えるため保存しています。

芝給水所の歴史

 芝給水所は、芝増上寺の北西部の高台に位置し、信濃小諸藩主 牧野遠江守康済の屋敷跡地に、芝給水工場として明治29年(1896年)8月に竣功、明治31年12月に淀橋浄水場から浄水を受け給水を開始しました。

 この給水所は、淀橋浄水場、本郷給水工場と共に、東京近代水道の始まりとなった施設で、その後約100年にわたり、関東大震災や戦災に見舞われながらも、東京都民の暮らしに欠かせない水を送り続けてきました。

 旧芝給水所は煉瓦造りであり、東京における近代水道創設当時の高い土木技術を物語る文化的・技術的遺産です。

 芝給水所を改築するに当たり、先人の偉業を称え、旧芝給水所の一部を保存し後世に伝えるものです。

平成14年2月 東京都水道局

History of Shiba water stations








横浜市開港記念会館(国指定重要文化財) 横浜町会所跡 岡倉天心生誕の地

横浜市開港記念会館(国指定重要文化財) 横浜町会所跡 岡倉天心生誕の地






横浜市開港記念会館(国指定重要文化財)

 横浜市開港記念会館は、開港50周年を記念して、大正3年(1914年)9月に着工され、大正6年7月1日の開港記念日に「開港記念横浜会館」として開館しました。

 建物は、大正12年の関東大震災によって一部が焼失したため、昭和2年と平成元年に復旧工事が行われ創建当時の姿に復元されました。

 建物の外観は、腰石まで花崗岩積で、1・2階は赤い化粧煉瓦と白い花崗岩を積み上げた辰野式フリークラシックスタイルで、古典主義を自由にアレンジしています。東南隅には高塔(時計塔)、西南隅に八角ドーム、さらに高騰を挟む位置にも角ドームを作り、屋根は寄棟造り・天然スレート葺で、越屋根は銅板葺きとしています。また、建物内部の広間、中庭に面する窓にはステンドグラスが用いられるなど、大正期の建物として華やかで優れた意匠が施されています。

横浜市教育委員会文化財課 
社団法人横浜国際観光協会







横浜町会所跡

 この地に、明治7年(1874年)4月に竣功した石造2階建て屋上に高塔のある建物は、横浜市施行の明治22年まで横浜の町政を執った町会所でした。「時計台」の愛称で親しまれ、横浜の名所となっていました。明治23年横浜貿易商組合会館と改称し、その後横浜会館と改めましたが、明治39年12月類焼により焼失いたしました。跡地に開校50年を記念して現在の建物が大正6年竣工いたしました。

 また、この地は開港期より明治初年まで、岡倉天心の父 勘右衛門が支配人をしていた石川屋(越前藩(福井県)の生糸売込店)があったところです。









2015-02-06

英一番館 と 桑の森


英一番館

 安政6年6月2日(1959.7.1)横浜が開港した。イギリス人、ウイリアム・ケズウィックは、開港と同時に帆船で横浜に来航し、居留地一番館において貿易を始めた。この建物は、ジャーディン・マセソン商会と称したが、当時の人々が「英一番館」と呼んでいたのは、この地点である。






インド水塔

インド水塔

 関東大震災の際に、横浜市がインド商人をはじめとする外国商人の救済措置を積極的に講じた返礼として、インド商組合から寄贈されたものです。

 華麗なモザイク模様のドームのイスラーム建築をはじめ、その意匠は様々な要素がたくさん組み合わされています。


The Drinking Fpuntain

Presented to the City of Yokohama.

In Memory of  Our Countrymen

Lost in Earthquake, September 1, 1923.

The Indian Community.










横浜新梁

横浜新梁

横浜市認定歴史的建造物

建造年 1912年 大正元年
設計者 大蔵省臨時建築部





横浜 赤レンガ倉庫

赤レンガ倉庫

 赤レンガ倉庫は、東洋で初めて築造された近代ふ頭である「新港ふ頭」に、輸出入される貨物を税関が管理する倉庫として、国(大蔵省)によって建設されたもので、耐震・耐火構造を採用した当時最新鋭の倉庫でした。

 創建時から戦前までは横浜税関が管理し、葉煙草、羊毛、光学機器などの輸入品を取り扱っていましたが、戦時中は陸海軍の輸送司令部が管理し、戦後は米軍の港湾司令部として使用されました。米軍の接収解除後は、1号倉庫を横浜税関が、2号倉庫を横浜市が、それぞれ管理していました。

 しかし、海上貨物のコンテナ化とともに次第に取扱量が減少し、平成元年に倉庫としての用途が廃止されました。

 横浜市では、この赤レンガ倉庫を、貴重な歴史的建造物として保存し、「港の賑わいと文化を創造する空間」として活用するため、平成4年に国から取得し、保存・活用工事を進め、平成14年4月に商業・文化施設としてオープンしました。











2015-02-05

和をのぞむ

和をのぞむ

 太平洋戦争の末期、昭和20年5月、山の手地域に大空襲があり、赤坂・青山地域の大半が焦土と化しました。
 
 表参道では、ケヤキが燃え、青山通りの交差点付近は、火と熱風により逃げ場を失った多くの人々が亡くなりました。

 戦災により亡くなった人々を慰霊するとともに、心から戦争のない世界の平和を祈ります。

 港区政60周年にあたり、この地に平和を願う記念碑を建立します。

平成19年1月 港区赤坂移築総合支所 区政60周年記念事業実行委員会





2015-01-16

中央工学校 開校の地

中央工学校 開校の地

「 明治42年(1909年)本校は、この地に開校しました。現在は、北区王子本町一丁目26番17号に所在し、見学の目的は、開校以来一貫して堅実で社会性豊かな実践力のある技術者の育成としています。」

 
東京都千代田区一ツ橋2丁目6−2 日本教育会館前