2014-04-26

今日の料理 2014-04-26 鶏のから揚げとミモザサラダ

鶏のから揚げは、レンジで作るタイプです。

出来上がったら、チリソースにマヨネーズ、塩コショウを混ぜたものを掛けます。
付け合わせはキャベツの千切り。

ミモザサラダは、きゅうり、大根の千切りとゆで卵。
ゆで卵は白身を粗みじん。黄身を豆腐すくいの網状のところでつぶす。

特別おまけのスペアリブのトマトソース。
格でいえばこちらがメインか。朝からスペアリブを作りました。
16個ありますよ。





2014-04-25

神田明神

神田明神







国学発祥の地(神田明神)

国学発祥の地 (神田明神)

今 東光 撰文

 荷田東丸は 京都伏見稲荷社家に生る 通称羽倉斎本名信盛なり 元禄十三年三代将軍家光五十年祭に勅使として 大炊御門前右大臣経光公中仙道経由日光および江戸に下向の砌り随行して江戸に出で 享保七年まで在府せり その間各所に講説し歌会を催し且つ多くの門人を養へり その講席は社神主芝埼邸にてのちに東丸養子在満及び高弟浜松の人岡部三四真渕もこの邸を借用せり 当時神主は柴崎宮内少輔好高 その男宮内大輔好寛その舎弟豊後守好全の三代百年に亘れり 然も好全妻女は東丸の女直子なり されば柴崎神主は歴代自ら学ぶと共に能く師東丸のために尽瘁し学園の場を供して国学振興に寄与せり 師東丸は門弟を訓ふる頗る懇切なりき 殊に元禄十五年 門弟の宗偏(ぎょうにんべん)流茶人中島五郎作宗吾等と密かに赤穂浪士のために計りて義挙を扶けしはその忠直の性を知るに足る この東丸出でて吾が国学は賀茂真淵 本居宣長と伝統して今日に至る 今その遺跡に記して以て後学の為に伝ふ



朝の散歩 2014-04-24 末広町駅から神田明神経由室町4

朝の散歩 2014-04-24
末広町駅から神田明神経由室町4

途中、神田明神も。

末広町も。




末広町

末広町

銀座線 末広町駅

かつてこの界隈は、末広町と呼ばれていました。
江戸時代、現在の外神田三丁目一帯は、武家の屋敷地と商人・職人の居住地とが隣り合っていました。古い江戸の地図を見ると、町の南側にあたる場所には、神田平永町代地や柳原岩代町代地、麹町平河町代地、神田山本町代地といった町名が見受けられます。いずれも商人や職人が住んだ町(町屋)で、主に日用品が商われていたと伝わっています。・・・



きょうの料理 2014-04-25

さあ きょうの料理 です。

今週(と先週もですが)、料理パスの日がありました。材料がかなり余っています。

野菜など傷んだものもあるので、残ったものでテキトーにやりましょう。

レシピ通りにはやりませんね。

野菜あんかけの予定だったサワラですが、これは塩焼きに。
塩をするときはいつものことですが、振りかけるのではなく、粗塩を手に取ってすりこみます。

チキンステーキに添える予定のナスは諦め。
代わりに人参で付け合わせ。

筑前煮はほぼそのまま。ただし中国製のたけのこは捨てます。

あ それからチキンステーキになるはずだった鶏肉は筑前煮に入りました。
本来の鶏肉は量が少なかったので。
筑前煮には隠し味程度にコショウをいれます。

さつまいもと人参を大きめに切り茹でます。これを冷ましてからマヨネーズで和えましょう。マヨネーズだけでは物足りないので、家では必ずフレンチドレッシングも使います。これはポテトサラダの時も同じです。

最後に。
ニラが余っているので、ベーコンで炒めてニラ玉かな。

さあお楽しみ。


神田元佐久間町

神田元佐久間町

ここはかつて神田元佐久間町と呼ばれていました。
江戸時代、この界隈には豊前小倉藩の中屋敷がありました。







旧 東黒門町

旧 東黒門町

 東叡山寛永寺が創建されたことにともない、寛永三年(1626)に同寺の門前町として上の新黒門町ができた。この命名については御府内備考が『東叡山御門前に相成、元黒門町に引続町屋に御成候に付き新黒門町と唱候哉 』と述べられているのに由来する。
 上野新黒門町は、御成道(現在の中央通り)の両側に形成されていたが、明治二年(1869)、御成道を境にして東西に二分され上野西黒門町、上野東黒門町として新たに発足した。よく三年、東京府の近代都市政策のもと、下谷第三十九番組に属し、地元指導者を中心にまちづくりが始まった。そして、明治五年(1872)付近の武家屋敷を合併し、本町は形づくられた。明治四十四年に上野の二字をはずし、東黒門町となった。


神田亀住町

神田亀住町

 江戸時代のこの界隈は、武家屋敷が立ち並ぶ地域で、幕末頃には一帯が豊前小倉藩小笠原家の中屋敷となっていました。
 神田亀住町は、もともと神田川の北岸に江戸時代からあった、神田六軒町、柳原大門町、神田八軒町、上野町代地が、明治二年(1869)に合併してできた町です。その名前は、末永く生活できる場であってほしいという願いを込めて名付けられたといいます。
 このとしの十二月、現在の外神田一帯に大きな被害をもたらした火事がありました。火災後、神田亀住町は新政府により火除地(延焼をくい止めるための空き地)にされたため、よく三年(1870)、小笠原家の屋敷跡を代地として与えられ神田川北岸より移転してきました。
 明治四十四年(1911)の町名変更で、町名はいったん亀住町となります。昭和二十二年(1947)にふたたび神田亀住町に戻されますが、昭和三十九年(1964)の住居表示の実施で、神田栄町や神田元佐久間町と合併して現在の外神田五丁目になりました。
 町内にある亀住稲荷神社は、豊前小倉藩の中屋敷にあった稲荷と神田八軒町にあった稲荷を一緒に祀ったユニークな社です。町の人々はこの神社に深い愛情をいだき、稲荷のための保存講を管理・運営を続けるなど、いつの時代も大切にしてきました。







龍閑橋の歴史と由来

龍閑橋の歴史と由来

 もともと、神田の堀に架けられていた龍閑橋は、堀を埋め立てることで必要なくなりました。同じころ、この付近に開かれた新しい川に、いらなくなった橋をそのまま架けたのが、現在の龍閑橋の地名の由来となっています。まだ無名だったその新川は、橋の名前にちなんで「龍閑川」と名付けられました。今は無き龍閑川は、その昔、神田と日本橋の両区を分割するものでした。
 また、「龍閑」という名については、龍閑川の西端にあった町に、旧幕府坊主の「井上龍閑」と言う人の家があったことに由来します。