2014-10-19

千葉寺

千葉寺

「 市内最古の寺院で、奈良時代の和銅2年(709年)の創建と伝えられ、発掘調査の結果、奈良時代末期には四間×四間の瓦葺きの金堂が存在したことが確認された。

 境内の仁王門と鐘楼堂は、文政11年(1828年)に建立されたものである。

 遺物には、奈良時代の布目瓦、平安時代の経筒、鎌倉時代の常滑焼骨壺、室町時代の青銅製の梅竹透釣灯篭(国指定重要文化財。東京国立博物館所蔵)、桃山時代の五輪石塔など、貴重なものが数多くある。」













 千葉寺の公孫樹 千葉県指定天然記念物 昭和10年11月12日指定

 この大きなイチョウは、和銅2年(709年)、僧行基がもたらしたものと伝える。樹高30m、目通り8mもあり、神奈川県鎌倉市の「鶴岡八幡のイチョウ」よりも大きい。樹勢旺盛で地上3mから枝を張り、乳柱がたれているがこれを煎じて飲むと母乳がよく出るようになると伝えられている。

It is said that the ginkgo tree was planted in 709 by a priest named Gyoki and its size exceeds the one at Hachiman Shrine in Kamakura.













「来る年も 八十八か所 巡り来て 此の千葉寺に 心 極楽」  昭和55年9月吉日 小島孝衛













千葉笑

 また千葉笑とて、としとごのしはすのつごもりの夜、里人この寺によりつどひ、各おもておほひして、地頭村長などの邪曲事(よこしまこと)よりはじめ、人のよからぬふるまひどもを、あげつらひののしりあふことありといへり、こは人々のおこたりをいさむるわざなれば、筑波嶺のかがひなどには、いといとまされる風俗といふべし。
相馬日記 高田興清(文政元年)

千葉寺や 隅に子どもも むり笑い   小林一茶 (文政6年)





2014-10-18

ふなばしアンデルセン公園 「平和を呼ぶ」岡本太郎

ふなばしアンデルセン公園

「平和を呼ぶ」岡本太郎





「この像は、船橋市民が世界の恒久平和を願い昭和61年12月19日「平和都市宣言」をしたことを記念し、ここに建立したものである。なお、建立にあたっては財団法人日本宝くじ協会の助成を受けたものである。
昭和61年10月 船橋市」







2014-10-13

親鸞聖人旧蹟 小島草庵跡

親鸞聖人旧蹟 小島草庵跡





権力闘争に明け暮れる支配者の下 人間いかに生きるべきか 真実を求めてやまない親鸞は 愚劣な政治権力に追われて京から越後へ 茨の道を踏み分けて幾山河 やがて妻恵信尼と息信蓮を伴い 初めて常総の地を踏み 小島の荘に入られたのは建保2年聖人42歳のときである

煩悩を断ずることなく他力本願の念仏布教に徹する聖人の姿は 慈愛と活力に満ち溢れた純粋崇高な仏の姿であった

小島草庵は 恵信尼が「二幅の御影」を夢みられたところ 聖人はこの地にとどまること3年 草庵を門弟の蓮位坊に譲って稲田に移られ常総在住20年 衆生と共に苦しみ悲しみ逞しく生きぬく他力本願の立教開宗の偉業を完成されたのである

苛烈な圧政と 極度の貧困に喘ぐ人びとの心に 浄土欣求の灯を点じ 荒廃しゆく常総の天地に 弥陀の光明を輝かせた不滅の聖業は 日本人の胸底に深く刻み込まれ 永遠に生きつづけている


新いばらきタイムス社は 聖人生誕800年 立教開宗750年を記念し数多くの県民の方々と聖人の高弟小川の豪族 幡谷二郎信勝唯信房の後裔 幡谷仙三郎氏の篤志に依り この地に遺徳顕彰碑を建立するものである
1973年 11月吉日 大津平八郎誌

親鸞聖人遺徳碑建立委員会
名誉会長 茨城県知事 岩上 二郎
委員長  下妻市長  加藤 俊介
副委員長 新いばらきタイムス社長 鈴木 正樹

篤志寄付 幡谷 仙三郎 東茨城群小川町
碑施工 原石寄進 川俣石材店 川俣 正雄 西茨城郡岩瀬町










市指定史跡 小島草庵跡
指定年月日 昭和52年3月22日

 親鸞は、その生い立ちから、配流、妻帯、東国移住の動機、小島居住説をはじめ、その生涯について、いろいろな論がなされており、親鸞伝の決定版はまだ見られないが、当地には次のような伝承が残されている。

 越後流罪と滞留7年の後、親鸞は建保2年(1214年)、妻子を伴って上野国佐貫を経て、常陸国に入り、最初に居住したのが、この小島草庵である。小島郡司の武弘が親鸞の徳を慕い、この地に草庵を設けて迎えた。ここに3年間滞留し、越後で果たせなかった真宗念仏の伝道に積極的に乗り出した。いわばこの草庵(三月寺)こそ真宗開祖の親鸞が関東において真価を発揮した最初の土地である。

 親鸞の高弟蓮位坊は当地出身といわれ、子孫は下間(しもつま)氏と称して、鎌倉時代から現代に至るまで、東・西本願寺の坊官を勤めている。

 草庵跡には「親鸞聖人旧跡」、「三歳御住居」とした古碑、欽明天皇、用明天皇、聖徳太子の墓に、後に親鸞の墓を加えて「四体仏」と呼ぶ五輪塔と、親鸞を慕ったという「稲田恋しの銀杏」の大樹がある。

平成14年3月 下妻市教育委員会




















2014-10-02

札幌市道路元標

札幌市道路元標
赤れんが庁舎入口前 (「赤レンガテラス」至近)



 この道路元標は
北海道及び札幌市の道路の起終点として、昭和3年にはじめて設置したが、昭和57年3月に再建したものである。

 道路元標とは、各市町村の国道、道道の起終点となっていたものである。





参考 札幌市内散歩

2014-09-30

史跡 高輪大木戸跡 Takanawa Okido

史跡 高輪大木戸跡

港区高輪2-19

 高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永7年(1710)に芝口門に建てられたのが起源である。享保9年(1724)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永7年説・寛政4年(1792)など諸説ある。
 
 江戸の南の入口として、道幅約6間(約10メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止めとし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。

 天保2年(1831)には、札の辻(現在の港区芝5-29-16)から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰・常盤橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外とともに江戸の6大高札場の一つであった。

 京登り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿にいたる海岸の景色もよく月見の名所であった。

 江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、海岸側に5.4メートル、長さ7.3メートル、高さ3.6メートルの石垣のみが残されている。

 四谷木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。震災後「史跡名勝天然記念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。

平成5年3月31日 建設 東京都教育委員会


It is origin Takanawa Okido, it was built in Shibaguchi gate 1710 of the mid-Edo period in 1710.Then, the current location from 1724. 

As the southern entrance of Edo, stone wall has been built on both sides of the old Tokaido of about 10 m road width. The closed to traffic at night and had a function of traffic control and the maintenance of public order. 


In 1831, Kosatsu field was also moved from (Shiba, Minato-ku, 5-29-16 current) Fudanotsuji. Kosatsu field here, was one of the six major Kosatsu field of Edo "Nihonbashi Minamitsume", "Tokiwabashi outside", "Asakusabashi inside", "Sujikaibashi inside" and with "Hanzomon outside". 

Send-off travelers to go to Kyoto, of travelers to go to Ise Shrine has been made. There was a teahouse here. At the time, views of the coast between the inn to Shinagawa from here was good. Here was famous as attractions see the beautiful moon. 


Facilities Kido is abolished in the late Edo period, currently, only stone wall 5.4 m, 7.3 m length, 3.6 meters in height have been left on the coast side. 

Facilities Kido were discontinued in the late Edo period. Currently, only stone wall of the coast side is left. 

5.4 m width, 7.3 m length, the size of the stone walls, is 3.6 meters in height. 


It has been specified from (the Ministry of Education jurisdiction later) by the Ministry of Home Affairs "scenic natural monument Historic Sites Preservation Act" after the Great Kanto Earthquake.













史跡名勝天然記念物保存法により
昭和3年2月 文部大臣指定


 昭和7年3月 建設 東京市
 

史蹟 高輪大木戸跡(足偏に止)




2014-09-29

滝廉太郎 居住地跡 The former residence of the composer Rentaro Taki

滝廉太郎 居住地跡

滝廉太郎居住地跡

 滝廉太郎は、この交差点から西に100メートル程の所(一番町6番地ライオンズマンション一番町第2)に、明治27(1894)年ごろから明治34(1901)年4月まで居住していました。今でも愛唱されています名曲「花」、「荒城の月」、「箱根八里」、「お正月」、「鳩ぽっぽ」など、彼の作品の多くはそこで作られました。

 滝廉太郎は明治12(1879)年東京に生まれ、幼少期より音楽に対する才能を示し、明治27年東京高等師範学校付属音楽学校専修科(後の東京音楽学校)に入学しました。優秀な成績で卒業した後は、母校の助教授として後進の指導にあたりました。

 明治34年、文部省の留学生としてドイツのライプツィヒ国立音楽学校に学びました。しかし、病を得て帰国し、大分の父母のもとに帰り療養しましたが、家族の手厚い看護もむなしく、明治36(1903)年6月29日死去しました。日本の芸術歌曲の創始者ともいわれています。

 滝廉太郎が、一番町に暮らしていたことを偲び、毎年9月下旬には地元町会の主催で、「滝廉太郎を偲ぶ会」がこの場所で開催されています。

平成17年8月 千代田区教育委員会


The former residence of the composer Rentaro Taki

 In place of about 100 meters to the west, Rentaro Taki has lived up to April 1901 from 1894 from around this intersection.

 Many masterpieces that have been passed down to sing even now to the people "Flower", "Kojonotsuki", "Hakone Hachiri", "New Year", and "Pigeon", it was made here.

 Rentaro Taki was born in Tokyo in 1879. Shows a talent for music from early childhood, in 1894, was admitted to the Tokyo Higher Normal School included music school special course. This is the Tokyo School of Music after. After graduating with honors, become assistant professor of his alma mater, he hit the guidance of the reverse.

 In 1901, and studied in Germany as students of the Ministry of Education, he learned to Leipzig National Music School.
 However, because it was sick, he returned home. Was recuperating under the parents, but he died June 29, 1903.

 Rentaro Taki is said to be the founder of the art song of Japan.

 In order to keep the memory that Rentaro Taki had been living in Ichiban-cho, and has been held that "remembering the Rentaro Taki" in late September every year.




2014-09-24

旧帝国議会議事堂 石工作場 跡

旧帝国議会 議事堂 石工作場 跡

芝浦3丁目なぎさ橋の付近にあります。


「旧帝国議会議事堂 石工作場 跡

由緒、この石は草水石と名称し、国会議事堂に使用されていたのが、今に至りて埋もれていたもので、草水とは石油の古称、越後の産地名、芝浦のそもそもの地主は越後の石油王。その因縁浅からぬものとして、ここに記す。」





2014-09-21

京橋大根河岸青物市場跡 Kyobashi radish riverbank vegetable market remains

京橋大根河岸青物市場跡
Kyobashi radish riverbank vegetable market remains

下記の碑文は ビバ!江戸 より引用しました。

遠く寛文の初め江戸数寄屋橋邊に處の人数名打倚りさゝやかなる青物の市を立てしに遠近の村村より作物多く集りぬ是等の店はゆきゝの人或いは附近の人人に之をひさぐ数年ならずして店の数増加し漸く市場の形整い江戸府民のため無くてはかなわぬ機関とはなりぬその後火炎に罹りしにより東海道の要路にあたり且つ水運の便ある京橋川の北岸紺屋町へ移轉す偶この市場への大根の入荷殊更夥しきにより世の人大根河岸と呼び遂に京橋大根河岸と稱うるに至るかくて二百餘年を経たる明治十年京橋川南岸の太刀賣と稱する甘藷問屋数名を加入せしめ問屋三十七軒仲買十七名を數うるに至りしかば府尹の認可を得て組合を設立しこゝに始めて大市場としての規模完成す
大正十二年九月大震災の厄難に遭いしも組合員は鋭意復興に努力し以前に優る盛況を呈す時に問屋六十八名仲買百五名なり昭和十年二月中央卸賣市場法實施の一環として東京市中央卸賣市場の開設さるに際し國家の要請否みがたく父祖三百年愛着の絆を断ちて揺籃の地を去り築地本場に入り問屋は一体となりて会社を起こし仲買は舊態のまゝ開業すその後第二次世界大戦のため幾多の變革ありしも戦後再び舊状に復し業況益好調を極む斯る折柄舊京橋青物市場蹟記念碑建設の議起り期成会を組織して之が實現に努め漸くその工を竣えたり依ってここにその由来を記し開設以来二百八十餘年の歴史を回顧し其盛時を偲ぶたよりとなす
昭和三十四年六月 藤浦富太郎撰  江川碧潭書




2014-09-20

江戸歌舞伎発祥の地Location of Edo Kabuki originated

江戸歌舞伎発祥の地

寛永元年2月15日元祖猿若中村勘三郎中橋南地と言える此の地に猿若中村座の芝居櫓を上ぐ これ江戸歌舞伎の濫〇也 茲に史跡を按し斯石を鎮め國劇歌舞伎発祥の地として永く記念す
昭和32年7月 建立
江戸歌舞伎旧史保存會

Location of Edo Kabuki originated 

Saruwaka Kanzaburo Nakamura had given him a play tower of Saruwaka Nakamura seat on February 15, 1624. 
This is the beginning of the Edo Kabuki.