2022-04-24

旧新橋停車場

旧新橋停車場 駅舎玄関遺構 ゼロマイル標識 プラットホーム 創業時の線路



駅舎玄関遺構

ここに残されているのは、正面玄関の階段の最下段として使われていた切石です。正面玄関の階段は9段あったこと が、当時の写真から分かっています。



旧新橋停車場

この建物は、 1872(明治5)年10月14日 (太陽暦)に開業した日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置に、できるだけ忠実に再現したものです。

新橋停車場駅舎は、アメリカ人R.P.ブリジェンスの設計により、1871(明治4)年5月に着工、同年12月に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、鉄道開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向かって、偉容を誇っていました。

1914 (大正3)年、新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り、それまでの烏森駅が新橋の名を引き継いで現在の新橋駅となり、貨物専用駅となった旧駅は汐留駅と改称、物流の大拠点として戦前戦後を通じて東京の経済活動を支えました。

文明開化の象徴として親しまれた旧駅舎は、1923(大正12) 年9月1日の関東大震災に際して火災のため焼失し、1934(昭和9)年から始まった汐留駅改良工事のため、残存していたプラットホームや構内の諸施設も解体されました。

1986 (昭和61)年、汐留駅はその使命を終えて廃止され、跡地の再開発工事に先立つ 埋蔵文化財の発掘調査が1991(平成3)年から行われた結果、旧新橋停車場駅舎とプラッ トホームなど構内の諸施設の礎石が発掘されました。1996(平成8)年12月10日、駅舎とプ ラットホームの一部の遺構が史跡『旧新橋停車場跡』として国の指定を受け、この史跡を 保護しつつわが国鉄道発祥の往時を偲ぶために、駅舎を再建することになったものです。




プラットホーム

構造

プラットホームは「盛土式石積」という構造で作られています。両側面の真下には、溝状に地面を掘って基礎石を敷詰め、その上に切石を石垣のように積んで土留め壁が作られ、内側には土が詰められました。基礎石には龍野藩脇坂家・仙台藩伊達家屋敷の礎石などが使われました。切石は笠石を含めて6段あり、地表には笠石を含めた上3段が出ていました。最下段部分は小口面を揃えて横に並ばせ、2段目から小口面と長手面を交互に並べて積んでいます。 ただし、一律的に小口面と長手面が交互になっているわけではなく、2・3段目では小口面が続く個所もあり、4・5段目では長手面が並ぶ個所もあります。

規模

プラットホームの全長は151.5m、幅は9.1mありました。再現されたのはそのうち駅舎寄りの25mです。 遺跡指定の範囲に残されているプラットホームの遺構は35mです。




ゼロ マイル 0哩標識

1870年4月25日 (明治3年3月25日)、測量の起点となる第一杭がこの場所に打ち込まれました。 1936(昭和11)年に日本の鉄道発祥の地としてO哩標識と約3mの軌道を復元しました。1958(昭和33)年10月14日、旧国鉄によって 『O哩標識』は鉄道記念物に指定され、1965(昭和40)年5月12日、『旧 新橋横浜間鉄道創設起点跡』として国の指定史跡に認定されました。



創業時の線路

創業当時、枕木やレールの台座 (チェアー)は小石や砂の 混じった土を被せられ、レールの頭だけが地表に出ていました。レール断面は上下対照のI型で、双頭レールといいます。この復元軌道の半分は小石を被せて当時に近い状態を再 現し、残りは枕木や台座が見えるようにしました。双頭レー ルは錬鉄製で、1873年にイギリスのダーリントンで作られ、官設鉄道で使われたあと、新潟県柏崎市の製油所で使われたもので、新日本石油株式会社、新日本石油加工株式会社の両社からご寄贈いただきました。

2014年7月21日撮影


 

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