2015-12-01

高槻城跡 2

高槻城跡 2

高槻城が記録に登場するのは、14世紀前半、入江左近将監春則が居城としてからである。

永禄12年(1569)には和田惟政が城主となったが、元亀4年(1573)、その子惟長と対立した高山飛騨守・右近父子が、和田氏を滅ぼして城主となった。キリシタンであった右近は、城内に天主教会堂を建てるなど布教に努め、天正9年(1581)には、イタリアの巡察使ヴァリニァーノを迎えて盛大な復活祭を催している。

その後は豊臣氏、徳川氏の直轄となり、大阪夏の陣(1615)後、内藤・土岐・岡部など譜代大名が城主となった。そして慶安2年(1649)、永井直清が3万6千石をもって入城、明治時代までの13代約230年にわたり、永井氏の藩政が続いた。

明治7年(1874)の鉄道敷設に伴って高槻城は破却され、今では城跡公園となり、市民の憩いの場となっている。昭和50年の調査では、本丸石垣の基礎部分を発掘、今も地中に遺構が眠っていることが明らかになった。本敷地内の石組みは、天守台や本丸御門の基礎石(根石)である。

高槻城跡は、昭和25年5月に府の史跡に指定されている。

昭和63年6月

大阪府教育委員会
高槻市教育委員会




高槻城跡 1 城跡公園

高槻城跡 1 城跡公園

高槻城跡は南北朝に姿を見せ 江戸期には八丁松原の景観と調和して名城とたたえられました。

城主のなかで高山右近はキリシタン大名で有名です。大阪京に近い城下町は漢詩人 藤井竹外ら多くの文人学者を育てました。城の石は明治初期今の高槻の町に発展する契機となった鉄道(JR)敷設に役立つなど高槻城跡には数々のドラマが秘められています。






高槻城跡公園の 高山右近像

高槻城跡公園の 高山右近像

高山右近

高山右近は、戦国末期の高槻城主。キリシタン大名であり、天文21年(1552)頃に、摂津高山(現豊能郡豊能町)で生まれたとされています。

右近と父・高山飛騨守は、主君和田惟政の敵荒木村重とむすび、惟政の遺子惟長を追放し、元亀4年(1573) 右近は高槻城主となりました。摂津の国主である荒木村重が織田信長に反旗をひるがえした天正6年(1578)、村重へ子や妹を人質にだしていた右近に、信長はオルガンティーノ司祭を使いとし、降伏をすすめました。これに対し右近は、苦悩の末開城したといわれています。その後右近は、山崎合戦には、秀吉に仕え功績を挙げました。

右近が高槻城主であったのは、播磨明石(明石市)に移封されるまでの12年間でした。

右近は、千利休の七哲の一人である茶人でもあり、「利休極上一の弟子也」ともうたわれています。。天正14年頃秀吉と利休を茶会に招いたこともあり、南坊と号していました。

 キリシタン大名としての右近は、天正2年(1574)城の側に壮麗な教会を建て、キリスト教の伝道に努めました。当時2万5千人の領民の内1万8千人(約72%)がキリシタンになったといわれています。

秀吉が、バテレン追放令を発したとき、右近は改宗を拒否し、領地を没収されています。禁教令をだした徳川幕府により、慶長19年(1614)10月、国外追放処分を受けました。マニラ到着後40日ほどで熱病におかされ、慶長20年2月3日になくなっています。

平成8年3月
高槻市教育委員会









2015-11-30

高槻 しろあと歴史館

高槻 しろあと歴史館


常設展示を見ました。
説明ボランティアの方に丁寧に解説していただきました。
朝一番だったので、マンツーマンでした。

詳細はしろあと歴史館のHPで。



















旧笹井家住宅

旧笹井家住宅

この町家は江戸時代中頃に建築されたもので、昭和47年9月12日、高槻市指定文化財の建造物第1号に指定されました。元の所在地は高槻城下の西北に当たる高槻町(旧紺屋町)です。

解説はこちらで (高槻市HP)