2014-05-02

朝の散歩 2014-05-02 門前仲町-永代橋-八丁堀-京橋-日本橋 

朝の散歩 2014-05-02 門前仲町-永代橋-八丁堀-京橋-日本橋 

日本国重要文化財 永代橋 http://op125d.blogspot.com/2014/05/blog-post.html


日本国重要文化財 永代橋 

日本国重要文化財 永代橋 

(諸元)
橋長 184.7メートル
幅員 25.6メートル
上部工 鋼製三径間カンチレバー式タイドアーチ橋

(所有者)
東京都

(指定年月日)
平成19年6月18日 指定(建第2501号)

(指定の意義)
 永代橋は、関東大震災復興事業によって建造されれた大正15年(1926年)12月に竣功した。
 永代橋の特筆すべき点として、上部構造は橋端部に水平力の及ばないライズ比7分の1の下路式タイドアーチで、リブに鋼板を充腹して剛性を高めたソリッドリブアーチ端部を高張力マンガン鋼のデュコール鋼を使ったアイバーで連結したアーチと、箱型板桁の突鋼及び吊桁からなる構造である。放物線状の大規模アーチを中心として、桁高を巧みに変化させた荘重な造形により、力学的合理性に基づく近代的橋梁美を実現した橋梁である。
 下部構造は鉄筋コンクリート造で固定式空気潜函工法を用いた橋脚二基と、締切工法による橋台二基からなる。
 建造工事は、内務省復興局が施工し、後に東京市に引き継がれた。設計者は、内務省復興局土木部長太田園三及び同技師田中豊の指導のもと、どう技師竹中喜忠らである。



 永代の名は、深川に造られた永代寺の名に由来する

 永代の名は、深川に造られた永代寺の名に由来する。
 元禄11年(1698年)、日本橋と深川を結ぶ橋として寛永寺本堂の余材をつかって永代橋がかけられた。
 その場所は、現在の橋より100メートルほど上流で、”深川の大渡し”があったところである。
 橋の脇には船〇番所があったために大船の通行を考えて、橋脚を高くしてあった。
 はじめ幕府直轄の」橋であったが、後には住民にまかされて、橋賃を徴収して管理と維持にあてた。しかし文化4年(1807年)8月の深川八幡の祭礼に、欄干の一部が崩れて多数の死者を生じる事件がおこっている。
 その後、かけかえが行われたが明治30年(1897年)になって、鉄製のトラス橋がつくられ、橋の位置も現在地に移された。しかし、”関東大震災”(1923年)には、橋床の木造部分が焼け〇○被害をうけたが、大震災復興事業の最初の工事として、大正15年(1926年)に、重量感あふれるアーチ橋にかけかえられ、現在に至っている。



八丁堀与力同心組屋敷跡 すずらん通りの京華スクエア

八丁堀与力同心組屋敷跡 すずらん通りの京華スクエア

八丁堀の与力・同心組屋敷跡

所在地 中央区八丁堀ほか

 江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永12年(1635)に江戸城化の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心組屋敷の町が成立しました。その範囲は茅場町から八丁堀一帯に集中しています。

 八丁堀と言えば捕り物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた、江戸町奉行配下の与力・同心の町でした。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。着流に羽織姿で懐手、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていました。

 初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力10人、同心50人から始まってのち、南北両町奉行が成立すると与力50人、同心280人と増加し、両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行200石、屋敷は300~500坪、同心は30俵二人扶持で、100坪ほどの屋敷地でした。

 これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍したのですが、生活費を得るため町民に屋敷地を貸すものも多く、与力で歌人の加藤枝直・千陰父子や医者で歌人の井上文雄だどの文化人や学書を輩出した町としても知られています。





永代橋から佃島のマンション群を見る

永代橋から佃島のマンション群を見る
堤防上の桜にかわって、今は護岸したの遊歩道にヒラトツツジが咲いている。