2024-10-28
日本最古のコンクリート電柱
2024-10-27
ペリー提督 函館来航関係碑
函館元町公園
「ペリー提督 来航時の足跡絵図」
「ペリー提督 来航時の足跡絵図」
1、黒船 ポーハタン号(当時 小嶋又次郎が描いたもの)
1854年5月17日(新暦)午前9時にアメリカの黒船艦隊2隻が箱館港に入港 その後更に3隻が入港した。
入港した艦船は旗艦 (1)ポーハタン号 2,500トン (2)ミシシッピー号 1,800トン (3)マセドニアン号 (4)サウザンプトン号 (5)バンダリア号
2、箱館における日米会談
1854年5月22日 午前11時よりペリー提督と松前藩家老・松前勘解由(かげゆ)との会談が沖之口役所(後の水上警察、西警察、現在の函館市臨海研究所)の近く、山田屋寿兵衛(じゅへえ)宅で始まる。
ペリーの要求とは、休息所とする家屋2, 3棟の借り入れ、遊歩区域の境界線を定めることなどであった。しかし、一家老の身分では決定権もなく押し問答が続いた。
3、箱館山からの眺望
箱館に着いたペリー艦隊一行は、早速当時の臥牛山(がぎゅうさん)(箱館山)に登り、各種の測量や調査を始め、海図の作成等を実施 箱館湾の出入港の安全を図る。
当時の箱館山山頂には観音像が建立されていたが、明治32年に当時の軍部が函館山を要塞化するため、指示により山頂より降ろされ称名寺湯の川説教所(現在の湯川寺(とうせんじ))に収蔵され現在に至っている(称名寺:須藤隆仙氏談)。
4、姿見坂の一景
函館の姿見坂(現在の函館市弁天町13番付近)から見た風景である。これは、ペリー艦隊に乗り組んでいた従軍画家ハイネが描いたもの。
ペリー提督一行が当時の箱館を市中見学した際、実行寺、称名寺、浄玄寺、当時の八幡社(現在の函館八幡宮)を訪ねたことが判明っされている
5、称名寺の境内
これも当時ペリーが箱館市中を散策しているときに、称名寺の境内の一角で日米交流をしているときの光景を描いたものである。(須藤隆仙氏、談)
函館ロータリークラブ
創立75周年記念事業
平成21年10月24日建立
函館ロータリークラブ 会長 柴田繁男
2022-11-20
会津若松鶴ヶ城
会津若松鶴ヶ城
令和4年(2022)1月20日撮影
北方監視の役目を担っていた会津藩が、なにゆえ京都守護職を受けなければならなかったのか。さらに戊辰の役で西軍から朝敵とされて後、恭順の意を示すも徹底攻撃され壊滅させられた。会津藩はその後新政府の懲罰的な命により、斗南藩として下北に移封。不毛極寒の痩地で、いかに誇り高い会津藩士とて、生きることができずに多くの命が失われた。
しかし、会津人の素晴らしさは、そのような境遇にありながら、その後の日本を支える人材を多く出したことにもある。
お台場 築いたのは、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門
お台場 築いたのは、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門
(2020年1月16日撮影)
幕府の命を受けこのお台場を築いたのは、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門です。
江川太郎左衛門は江戸時代末期の人です。
その時代にあって、その後の日本に多くのものを残しました。
このお台場建設のほか、同じく国指定史跡の韮山反射炉。これは産業遺構として世界遺産に登録されました。
その他のことは、こちらで。
ひらめきと感動の世界へのリンク。
「江川英龍 日本を守った知られざる英雄」
https://youtu.be/yfGDZvu_GAU
都立台場公園のあらまし 台場公園 (第三台場)
「お台場」の名で知られる品川台場は、江戸幕府が黒船来襲にそなえて品川沖に築いた 砲台跡です。設計者は伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍で、ベリーが浦賀に来航し た翌月の嘉永六年(一八五三年) 八月に着工、年三ヶ月の間に六基が完成しました。 現在は大正十五年(一九二六年)に国の史跡に指定された第三、第六台場だけが残されています。 このうち第三台場は、昭和三年東京市(都)によって整備され、台場公園として解放 されています。 周囲には、海面から五~七メートルの石垣積みの土手が築かれ、黒松が植えられています。 また内側の平坦なくぼ地には、陣屋、弾薬庫跡などがあります。史跡指定 大正15年12月20日 (外周30間 約55m〉 の海面を含む
法隆寺 夢殿 救世観音御開帳
法隆寺 夢殿 救世観音御開帳
10月30日 撮影
夢殿 (奈良時代 国宝)
Hall of Dreams (Yumedono)
The octagonal Yumedono, or Hall of Dreams, is one of Horyuji Temple's most impressive buildings. The scholar-priest Gyoshin Sozu commissioned its construction in 739 as a monument to Shotoku Taishi. The building was constructed on the site of the prince's private palace, where he lived until his death in 622. The Hall of Dreams derives its name from a legend that a golden Buddha once appeared to Shotoku Taishi in a dream.
A shining jewel sits atop the roof in the shape of a reliquary. Japan adopted the construction of octagonal wooden halls for use as memorial chapels and the Hall of Dreams is one such example. Memorial services honoring Shotoku Taishi are held in the building, which houses the Kuse Kannon, a statue built in the likeness of Shotoku Taishi and considered to be a masterpiece of seventh-century Buddhist art. The Kuse Kannon is believed to have the power to save people from suffering. Other important statues in the hall are a Nara period (710-794) dry-lacquer statue of the priest Gyoshin Sozu and a Heian period (794-1185) clay statue of the Dosen Risshi, a priest who renovated the Hall of Dreams during the Heian period.
京都守護職上屋敷跡 京都府庁内
京都府庁敷地内にある 「京都守護職上屋敷跡」
幕末京都の警備を命じられた 京都守護職は、市中に数ヶ所の 広大な屋敷を構えました。 現在の府庁にあたる敷地もその 一つで、この敷地は「上屋敷」 跡にあたり、度重なる増改築を 経て慶応元年(一八六五)に完成 しました。
規模は現在の敷地ほぼすべて を占め、正門や敷石、玄関等は たいへん豪華なものだったとい われています。
板垣退助像 日光神橋の傍らより東照宮を望むように立っている
日光 神橋付近
2022年11月17日 撮影
板垣退助像が神橋の傍らより東照宮を望むように立っている。
板垣退助は、「板垣死すとも自由は死せず」の名言で知られる明治の政治家です。
明治の初期に自由民権運動を展開し、自由党を編成。土佐(高知)出身。明治元年(1868) 戊辰戦争の時、彼は新政府軍の将として、日光廟に立てこもった大鳥圭介らの旧幕府軍を説得し、社寺を兵火から守ったと言われます。
その遺徳を讃え昭和4年に建設されたが最初の像は第二次大戦中に軍需に徴収された。昭和42年に再建。彫刻家、新関国臣の作。
2022-04-24
旧新橋停車場
2021-04-24
動輪の由来
動輪の由来
ここはかつて東京鉄道教習所があり、広大な敷地に校舎、大講堂、図書館、プール、寄宿舎など立派な施設が完備され、多数の鉄道マンが勉学にいそしんだ場所である。
当時の所在地
東京府北豊島郡西巣鴨町字池袋
敷地および建物
約37,000平方米の敷地に校舎、大講堂、寄宿舎など約100棟の建物があった。
存在した時期
大正13年(1924年)~昭和29年(1954年)
またこの地は鉄道開通50年記念事業の一環として設立認可された財団法人鐵道育英会により設立した東京鐵道中学が東京鐵道教習所内に開校し、後に東京育英中学、東京育英中学校、」東京育英高等学校、芝浦工業大学高等学校と改称し、昭和57年まで存在していた場所であもある。
存在した時期
大正13年(1924年)~昭和57年(1982年)
これらの施設は昭和20年4月14日の東京大空襲で一旦焼失した。
なお、この地は成蹊学園発祥の地でもあり、若者と教育に由緒深い土地柄である。
2021-03-31
雷神山 児童遊園
雷神山 児童遊園
雷神山の由来
應徳年間(1084-1087)疫病流行の折、これを鎮めるため雷神を祀った雷(いかずち)神社が建てられた。以来この土地は雷神山と呼ばれ、病気平癒を祈願して多くの人々が参拝するようになったという。戦後、氷川神社に合祀され児童遊園として生まれ変わった現在雷神山の地名と参道の桜並木にその名残を留めている。