2015-02-06

インド水塔

インド水塔

 関東大震災の際に、横浜市がインド商人をはじめとする外国商人の救済措置を積極的に講じた返礼として、インド商組合から寄贈されたものです。

 華麗なモザイク模様のドームのイスラーム建築をはじめ、その意匠は様々な要素がたくさん組み合わされています。


The Drinking Fpuntain

Presented to the City of Yokohama.

In Memory of  Our Countrymen

Lost in Earthquake, September 1, 1923.

The Indian Community.










横浜新梁

横浜新梁

横浜市認定歴史的建造物

建造年 1912年 大正元年
設計者 大蔵省臨時建築部





横浜 赤レンガ倉庫

赤レンガ倉庫

 赤レンガ倉庫は、東洋で初めて築造された近代ふ頭である「新港ふ頭」に、輸出入される貨物を税関が管理する倉庫として、国(大蔵省)によって建設されたもので、耐震・耐火構造を採用した当時最新鋭の倉庫でした。

 創建時から戦前までは横浜税関が管理し、葉煙草、羊毛、光学機器などの輸入品を取り扱っていましたが、戦時中は陸海軍の輸送司令部が管理し、戦後は米軍の港湾司令部として使用されました。米軍の接収解除後は、1号倉庫を横浜税関が、2号倉庫を横浜市が、それぞれ管理していました。

 しかし、海上貨物のコンテナ化とともに次第に取扱量が減少し、平成元年に倉庫としての用途が廃止されました。

 横浜市では、この赤レンガ倉庫を、貴重な歴史的建造物として保存し、「港の賑わいと文化を創造する空間」として活用するため、平成4年に国から取得し、保存・活用工事を進め、平成14年4月に商業・文化施設としてオープンしました。











2015-02-05

和をのぞむ

和をのぞむ

 太平洋戦争の末期、昭和20年5月、山の手地域に大空襲があり、赤坂・青山地域の大半が焦土と化しました。
 
 表参道では、ケヤキが燃え、青山通りの交差点付近は、火と熱風により逃げ場を失った多くの人々が亡くなりました。

 戦災により亡くなった人々を慰霊するとともに、心から戦争のない世界の平和を祈ります。

 港区政60周年にあたり、この地に平和を願う記念碑を建立します。

平成19年1月 港区赤坂移築総合支所 区政60周年記念事業実行委員会





2015-01-16

中央工学校 開校の地

中央工学校 開校の地

「 明治42年(1909年)本校は、この地に開校しました。現在は、北区王子本町一丁目26番17号に所在し、見学の目的は、開校以来一貫して堅実で社会性豊かな実践力のある技術者の育成としています。」

 
東京都千代田区一ツ橋2丁目6−2 日本教育会館前





有楽町で逢いましょう

歌碑 「有楽町で逢いましょう」

今は違う店に変わっている「有楽町そごう」のコマーシャルソングとして作られた。
それを知る人も少なくなりました。


作詞 佐伯孝夫
作曲 吉田正
唄  フランク永井

あなたを待てば 雨が降る
濡れて来ぬかと 気にかかる
ああ ビルのほとりの ティールーム
雨もいとしや 唄ってる甘いブルース
あなたとわたしの合言葉
有楽町で逢いましょう






















毎日新聞社 昭和毎日へのリンク
東京・有楽町にそごう開店 1957年05月25日
http://showa.mainichi.jp/news/1957/05/post-fa30.html





2014-12-24

なんじゃもんじゃの木

なんじゃもんじゃの木

東京都新宿区の歴史 より

この木の親木は古く幕末の頃、ここから南へ約400メートルの六道の辻にあったので、「六道木」とも呼ばれた珍しい木である。
明治18年(1885)にこのあたりは青山練兵場となったが、時の政府は所有者、萩原三之助からこれを買上げそのまま残した。
明治36年(1903)、白井光太郎博士(元帝国大学教授)が政府にこの木の保護願いを出し、種々尽力したため大正13年(1924)12月天然記念物の指定を受け保護されることになった。
然し樹齢百数十年といわれた名木も遂に昭和8年(1933)枯死した。
練兵場に枝を広げて立つ明治39年(1906)頃の六道木の姿は、絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)の中に描かれており、またその遺木の一部絵画館内に飾られている。
ここにあるひとつばたごは、2代目六道木で、明治36年(1903)頃白井博士が根接法により得たものであると伝えられている。
この由緒ある名木を、できるだけ多くの方にご覧いただくため、このたび碑石と共にここに移し植えたものである。
ひとつばたごの名称は、江戸時代の植物学者水谷豊文が、尾州二ノ宮山中(愛知県)でこの木を発見し名づけたものと伝えられるもくせい科に属する落葉樹で、国内では愛知、岐阜、対馬に産し、都内では十数ヶ所に見られる。
 昭和53年(1978)12月 明治神宮外苑

明治神宮HPにある説明




日本青年館

日本青年館の由来

 日本青年館は、明治神宮とは非常に深い関係にあります。大正6年頃、神宮の造営工事が戦争のために難行していた時、全国の青年団員は、勤労奉仕に立ち上がり、見事に完成させました。十万本を数える神宮の森も、当時の青年たちが、全国から持ち寄ったものです。

 この快挙に対して、皇太子殿下(昭和天皇陛下)よりお褒めのことば(令旨)を賜りましたが、感激した青年たちは、記念事業として、自分たちの城である日本青年館の建設を決めました。
 大正の青年たちは、植林作業や土木工事、禁酒、禁煙など、一人一円募金を行って145万円を集め、大正14年、当時としては近代的な施設(ホール・ホテル)を建設いたしました。以来、青少年はもとより、各界各層の宿泊研修、コンサート、公演など、多目的に利用されてまいりました。

 しかし、半世紀を過ぎた建物は、新しい時代に対応できなくなったため
、昭和54年、日本青年団協議会の5億円募金を原資として新館を建設いたしました。総工費58億円を投じた館は、延床面積24,401㎡(約7,500坪)、地上9階、地下3階の施設に生まれ変わり、旧館同様に、多くの人々に利用され、親しまれております。

日本青年館の移築計画について








聖徳記念絵画館

聖徳記念絵画館

本館は、明治神宮の祭神
明治天皇、昭憲皇太后の御遺徳を永く記念するため、国民の献金によって大正15年10月に完成したものであります。
館内の壁画はお二方の御事績を当代一流の画家たちが心血を注いで謹写したもので明治天皇のご一代記であると同時に「目で見る明治史」とも言えるものであります。






札の辻橋

「札の辻橋は、昭和8年(1933年)地域の交通を結ぶ橋として架けられましたが、平成16年(2004年)に現在の橋に生まれ変わりました。

このモニュメントは当時の橋で使われた石や橋名板を再利用してい造られたものです。」

(札の辻橋は、JR田町駅の品川駅側に架かる跨線橋です。)



















品川駅に向かう東海道新幹線