2014-05-25 夕食 焼きそば と 肉団子と玉ねぎのスープ
焼きそばは簡単!
豚肉に塩コショウします。
キャベツを適当に切り、長ネギは斜め切り。
シーフードの残っていたのをここぞと使います。
冷凍なんです。酒をふりかけしばらく置きます。
フライパンにサラダ油。熱くなったら豚肉を入れ色が変わるまで炒めましょう。
キャベツを炒め大体よくなったら長ネギ投入。
これもいい感じになったらそばを入れます。ここで少し水を振ってもいいです。
そばは切りながら炒めます。そのほうが全体に炒めやすいです。
最後にソースを掛けて出来上がり。
鍋に水とスープのもとを入れ、肉団子、玉ねぎを入れます。
玉ねぎが柔らかくなるように煮たらOK。
塩コショウで味を調えます。
おしまい。
2014-05-25
2014-05-23 門前仲町から南砂ウォーク ニオイバンマツリ
2014-05-23 門前仲町から南砂ウォーク
門前仲町から南砂までのウォークです。
門前仲町駅のあたりの植え込みに、ニオイバンマツリが植えられています。あたりに甘い香りが漂います。
あの魚三の前あたりにもあります。
門前仲町駅から南砂までのルートはほぼ一直線。約2.9キロでした。
・発句也 松尾桃青 宿の春
発句也松尾桃青宿の春
松尾芭蕉は、寛永12年(1672)29歳の時、故郷伊賀上野から江戸に出た。以後延宝8年(1680)37歳までの8年間、ここ小田原町(現 室町1丁目)の小沢太郎兵衛(大舟町名主、芭蕉門人、俳号卜尺)の借家に住んだことが、尾張鳴海の庄屋下里知足の書いた俳人住所録によって知られる。当時「桃青」と称していた芭蕉は、日本橋魚市場にまぢかな繁華の地に住みつつ俳壇における地歩を固め、延宝6年には俳諧宗匠として独立した。その翌年(延宝7年)正月、宗匠としての迎春の心意気を高らかに詠み上げたのがこの碑の句である。罷免の文字は、下里知足の自筆から摸刻した。
松尾芭蕉は、寛永12年(1672)29歳の時、故郷伊賀上野から江戸に出た。以後延宝8年(1680)37歳までの8年間、ここ小田原町(現 室町1丁目)の小沢太郎兵衛(大舟町名主、芭蕉門人、俳号卜尺)の借家に住んだことが、尾張鳴海の庄屋下里知足の書いた俳人住所録によって知られる。当時「桃青」と称していた芭蕉は、日本橋魚市場にまぢかな繁華の地に住みつつ俳壇における地歩を固め、延宝6年には俳諧宗匠として独立した。その翌年(延宝7年)正月、宗匠としての迎春の心意気を高らかに詠み上げたのがこの碑の句である。罷免の文字は、下里知足の自筆から摸刻した。
2014年5月23日の 朝ウォーク
茅場町駅から室町4
大手町川端緑道
大手町川端緑道
大手町連鎖型再開発エリアの北の端。日本橋川の上流右岸に最近遊歩道が整備された。
親水広場 小紋広場 桟敷広場 の三つのエリアがある。
錦橋たもとには、気象庁旧生物季節観測の木々。
神田橋たもとには、神田橋門石垣跡。
鎌倉橋たもとには江戸城外堀の石垣と荷揚げ場跡。
大手町連鎖型再開発エリアの北の端。日本橋川の上流右岸に最近遊歩道が整備された。
親水広場 小紋広場 桟敷広場 の三つのエリアがある。
錦橋たもとには、気象庁旧生物季節観測の木々。
神田橋たもとには、神田橋門石垣跡。
鎌倉橋たもとには江戸城外堀の石垣と荷揚げ場跡。
神田橋門石垣跡
多くの堀に囲まれた江戸城には、「三十六見附」と呼ばれるように、道路と堀の交差する場所には敵の侵入を防ぐための城門がありました。神田橋門もその一つで、外堀(現在の日本橋川)
に架かる外郭門で、芝崎口・神田口・大炊殿橋とも呼ばれ、寛永6年(1629)に下野真岡藩主稲葉正勝によって構築されました。特にこの門は、将軍が寛永寺や東照宮に行くための御成道に位置するために、その警備は重要でした。明治5年(1872)に門は取り壊されましたが、地中には城門石垣の一部が残されており、ここに並べた石は工事中に出土した石垣を城門想定位置に配置したものです。
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