2016-10-24

芝浦三丁目のMINATOYA

芝浦三丁目のMINATOYAが閉店しました。東京都港区芝浦三丁目11ミナトヤビル

75年余の営業を終えたそうです。
フランチャイズチェーン店ではない、地元の食品店からの営業と思います。
出勤時に昼食用のものをよく買いました。今朝はこのような状態になっていたので驚きました。
76年前、1940年頃から営業とすると。第二次世界大戦が始まったころから戦中、戦後、高度経済成長発展期。社会の変動をこの場所で見続けていたことと思います。
 この場所。今は超高層住宅群から駅に急ぐ人。駅から逆方向に通勤する人(私はこちらの方)。双方向の通行の多い場所です。日用品食品を扱うにはいい場所だと思っていましたが。
 古い人に聞くと数年前、お店の改装をしてきれいなったそうです。それまでは惣菜などを作っている様子が店先から見えたり、昔のお店の雰囲気だったそうです。今のようにきれいになってから雰囲気が変わったそうです。けして悪くなったのではなく、他のお店と同じ土俵に乗ってしまったのかと。



備後護国神社内の「宮本武蔵腰掛石の由来」

備後護国神社内の「宮本武蔵腰掛石の由来」




 元和元年(1615年)大阪夏の陣において、武蔵は、三河刈谷三万石城主水野日向守勝成の陣に属し参陣する。寛永年中(1624年から1629年)武蔵は福山城に勝成を訪う。武蔵の養子三木之助は水野家中、中川志摩之助の三男なり。水野家二番家老中山将監は、大阪陣中におけるよしみにより、武蔵を自邸において饗應。その時、武蔵が将監屋敷庭園の庭石に腰を掛けたのが、武蔵腰掛石として伝承されていた。

 水野氏断絶改易となり、阿部氏入封、それ以後将監屋敷は、阿部家第二家老下宮氏の屋敷となる。明治4年廃藩後、下宮氏はこの屋敷を引き拂うにあたり、この石の由緒によりこれを阿部神社に寄進したものである。

原文 平井隆夫 鷹の羽会





備後護国神社 阿部神社

備後護国神社 御由緒 御神徳

 当神社は、昭和32年まで阿部神社と称えていましたが、国家のために殉じられた御英霊を合祀した備後護国神社と合併して、社名を備後護国神社と改め、阿部神社の社名はなくなりました。

 阿部神社の建立は、文化10年(西暦1813年)に時の福山藩主が、歴代の祖霊を祀ったのがはじまりです。
 
 御祭神は、大彦命、武沼河別命(二柱とも四道将軍)を始め歴代藩主をお祀りしてあります。

 御神徳は、御祭神の御功績によるもので、大彦命の開拓・平定による開運・家内安全・健康・厄除等です。

 歴代の中で特に阿部正弘公は、老中筆頭として国旗(日の丸)を制定され、嘉永6年(西暦1853年)ペリー来航に当たり和親条約を締結し、日本の開国と、福山に誠之館を創設して、近代教育の基礎をつくられた教育の神様で、天満宮と並び尊ばれ、受験合格・学業成就の神として信仰されています。

例祭日
備後護国神社 10月23日
阿部神社 勇鷹祭 5月19日

広島県福山市丸之内1丁目9−2 備後護国神社





阿部正弘公石像潜り

正弘公は天保14年(1843年)25歳にして江戸幕府老中、今の大臣になり教育に力を注ぎ嘉永5年(1852年)老中筆頭、今の総理大臣に就き江戸と福山に誠之館を建てる。安政元年(1854年)日米、日英、日露の和親条約を結び開国し、近代文明国、日本の基礎を作る。また、学問のできる人材を広く重用して教育の重要性を高揚し、日の丸を日本の国旗と制定した人でもあります。阿部家11代、福山城主7代目の正弘公は、当神社の御祭神であり、希望学校の合格、就職の御祈祷を受けられ、石像を潜り希望をかなえてください。


2016-10-11

川柳の原点 誹風柳多留発祥の地

川柳の原点

誹風柳多留発祥の地

川柳は、江戸時代に江戸で生まれた17音の庶民文芸として今日に伝わっています。川柳の名称は、宝暦7年(1757年)に浅草新堀端にはじまりましたが、明和2年(1765年)7月、呉陵軒可有という人が、初代川柳評の前句付万句合の勝句(入選句)から17音の付句のみで鑑賞でき、深い笑いのある句を選び、今日<川柳の原点>とも呼ばれる。『誹風柳多留』を刊行しました。このことにより川柳は、<17音独立文芸>として確立され、後に全国へと広がっていきました。
 
 この付近には、『誹風柳多留』の版元・星運堂(花谷久次郎)があり、俳諧書などを刊行するかたわら、三代にわたり、『誹風柳多留』を通じて<川柳風>の隆盛に貢献、川柳を「江戸文芸」の一つにまで育てました。「誹風柳多留発祥の地」は「文芸川柳発祥の地」でもあります。

 記念碑の「羽のあるいいわけほどはあひる飛ぶ」の句は、「木綿」を号とした「誹風柳多留」の編者・呉陵軒可有の作です。

平成27年8月
柳多留250年実行委員会
台東区教育委員会

東京都台東区上野公園 池之端三丁目 





2016-01-18

東京大学発祥の地

東京大学発祥の地

我が国大学の発祥地

 当学士会館の現在の所在地は我が国の大学発祥地である。

 すなわち、明治10年(1877年)4月12日に神田錦町3丁目に在った東京開成学校と神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併し、東京大学が創立された。

 創立当初は法学部・理学部・文学部・医学部の4学部を以って編成され、法学部・理学部・文学部の校舎は神田錦町3丁目の当地に設けられていた。

 明治18年(1885年)法学部には文学部中の政治学及び理財学科が移され法政学部と改称され、また理学部の一部を分割した工芸学部が置かれた。このようにして東京大学は徐々に充実され明治18年までに本郷への移転を完了した。

 従って、この地がわが国の大学発祥地すなわち東京大学発祥の地ということになる。

 明治19年3月東京大学は帝国大学と改称され、その時、それまで独立していた工部大学校と工芸学部が合併され工科大学となり、その後東京農林学校が農科大学として加えられ、法・医・工・文・理・農の6分科大学と大学院よりなる総合大学が生まれ帝国大学と名付けられた。

 更に、明治30年(1897年)には京都帝国大学の設立に伴い、東京帝国大学と改称された。

 爾後明治40年に東北帝国大学、明治44年に九州帝国大学、大正7年に北海道帝国大学、昭和6年に大阪帝国大学、昭和14年に名古屋帝国大学が設立されたほか、戦後なくなったが大正13年に京城帝国大学、昭和3年に台北帝国大学がそれぞれ設立された。

 昭和22年(1974年)に至って、右の7帝国大学はそれぞれ、東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学と呼称が変更された。

 明治19年7月設立の学士会は以上の9大学の卒業生等を以って組織され、その事業の一つとして、当学士会館を建設し、その経営に当たっている。

平成3年(1991年)11月 学士会









五百羅漢道標

五百羅漢道標 文化2年再建銘

江東区指定有形民俗文化財
江東区猿江2-16 小名木川橋橋台北
平成18年3月27日 指定

 五百羅漢道標は、五百羅漢寺への道筋を案内する道標です。かつては、現在地より50メートルほど東にあった庚申堂の前に、川に面して建てられていました。正面には「是より五百らかん江右川[通] 八町ほど先へ参り[申]、右側には「此横道四ツ目橋通り亀戸天神□」とあり、亀戸天神への道も示しています。

 造立年代は不明ですが、左側面の銘文により享保16年(1731年)、寛政9年(1797年)、文化2年(1805年)の計三回再建されたことがわかります。現在の道標は文化2年に再建されたものです。

 五百羅漢寺とは、明治20年(1887年)まで現在の大島4-5付近にあった、天恩山五百羅漢寺(現在は目黒区に移転9のことです。堂内に安置された536体の羅漢像やらせん状の廊下をもつ三匝堂[さんそうどう](通称さざえ堂)が有名で、かめいどてんじんとならびおおくのさんけいきゃくをあつめました。

 この道標は、川沿いの道を歩く人はもちろんのこと、小名木川を船で訪れる人の目にも留まるように建てられていました。陸上と水上の両方の道を対象とした、水路に恵まれた江東区ならではの文化財です。

平成19年3月 江東区教育委員会







庚申堂と五百羅漢道標
明治時代の小名木川と河岸通り。
庚申堂と五百羅漢道標の建つ場所は、松の木(小名木川五本松)の先にあたる。






有元 史郎 芝浦工業大学 創立者

有元 史郎 芝浦工業大学 創立者

1896年(明治29年)6月25日
 広島県尾道市土堂町に有元家の四男として生まれる

1925年(大正14年)3月    
 東京帝国大学工学部機械工学科卒業
 北村芳子と結婚(2男4女をもうける)
 この後、同大学経済学部と法学部、日本大学商科と文科を続けて修了し、5学士号を得る

1927年(昭和2年)
 芝浦工業大学の前身である東京高等工商学校を開設

1938年(昭和13年)5月30日
 逝去 (享年43)

 芝浦工業大学の創立者、有元史郎先生は弱冠30歳の時に、日本の工業技術興隆に必要とされた「実用的な技術と知識を併せ持つ技術者の育成」を目的として、東京高等工商学校を開設し、実学主義の教育を始められました。

 以来、芝浦工業大学は教育・研究活動を通じて多くの技術者・研究者を輩出し、工業技術の発展に貢献して、確固たる礎をきずいています。

 この有本史郎先生の功績に敬意を評し、2009年3月芝浦後者完成を記念して本胸像は制作されました。

 なお本胸像の台座は1935年、芝浦校舎旧館の施工を請け負った戸田建設の前身である戸田組の社長、二代戸田利兵衛氏が新築記念として寄贈した際のもので、台座上部が失われていた状態で旧本館に残されていました。この台座は当時の石職人が稲田石を丹精込めて削り出し、有本史郎先生のお名前を彫り込んだものでした。

 そこで芝浦工業大学の歴史を継承する想いを込めて、胸像の台座として使用しました。

製作者 瀬戸 剛 (GO SETO)
寄贈 戸田建設株式会社(胸像 2009年佳節)
    戸田組       (台座 1935年佳節