2015-09-11

松浦武四郎翁の像

松浦武四郎翁の像

 北海道の名付け親 松浦武四郎翁は、 文政元年(1818)伊勢国川村(現 三重県三雲町)に代々郷士であった松浦家の四子として生まれる。

 翁は27歳の春、蝦夷地探検を発起以来6度に渡り蝦夷地を案内のアイヌの人々と踏査し、詳細で実情をあますところなく書き記された地図・絵図・記録は高く評価され、探検家・研究者として、その功績は偉大である。

 翁の身長は4尺8寸(1m45cm)、足の大きさは24cmと小柄ながら、その旺盛な精力と知識欲により未開の荒野を踏査・探検し、当地へも4度に渡って訪れ、鰊漁場の賑わいをきわめた往時の鬼鹿の歴史を詩に残している。

 松浦武四郎は、社会科学史上・文化史上に輝く燦然たる偉人であるとともに北海道の史実を証するものとして、今もなお道民の心のなかに生き続けている。


名にも似ず すがたやさしき女郎花 なまめき立てる おにしかの里   松浦武四郎




鬼鹿
小平鰊番屋 鰊文化歴史公園








三船遭難慰霊の碑

三船遭難慰霊の碑

碑文
昭和20年8月15日 太平洋戦争(ママ)終わる終戦後7日 昭和20年8月22日早暁の海は波穏やかにして 微風甲板を渡る
この日 泰東丸 第二新興丸 小笠原丸の三船は戦乱の樺太より緊急引揚の老幼婦女子乗組員 5,082名を乗せ鬼鹿沖にさしかかりしが突如旧ソ連軍の潜水艦による雷攻撃に遭い瞬時にして沈没或いは大破し 1,708名の尊き命を奪わる
留別の地樺太を脱し数刻夢に描きし故山を目睫にしてこの惨禍に遭う悲惨の極みなり
星霜ここに30年我等同胞慟哭の海に向かい霊鎮まらんことを祈りつつこの碑を建つ

昭和50年8月22日
樺太引揚三船遭難慰霊碑建立合同委員会






間宮林蔵 渡樺出港の地の碑 および 宗谷アイヌ 柏木ベンの碑


間宮林蔵 渡樺出港の地の碑

間宮林蔵は、2度にわたって樺太を探検しました。第1回目は、1808年(文化5年)4月13日(新暦5月8日)に、松田伝十郎とともに宗谷を出発。シラヌシから東海岸を調査した後、西海岸のノテトで伝十郎と合流。間宮海峡の存在を確認して、閏6月20日(新暦8月11日)にシラヌシから宗谷に戻りました。

第2回目の出発は、宗谷帰着から20日ほど後の7月13日(新暦9月3日)。単身で渡樺した林蔵は6人のアイヌを雇い、西海岸を北上。トンナイで一冬を過ごし海峡を確認した後、ノテトから公益に向かうニブフの一行に同行して大陸のデレンに渡り、その年の晩秋に宗谷に戻りました。

林蔵の足跡は、村上貞助によって『北夷分界余話』『東韃地方紀行』としてまとめられ、1811年(文化8年)幕府に提出されました。この2冊は、「樺太編」「大陸編」というべきもので、前者には、樺太の地名や地勢・民俗が。後者には、清国の仮府(一時的な役所)が置かれていたデレンを中心に、アムール川下流での調査が報告されており、現在でも、北方アジアを知る貴重な資料となっています。

稚内市教育委員会





稚内観光情報HP
https://www.city.wakkanai.hokkaido.jp/kanko/midokoro/spot/rinzoshuppatsu.html




此地は吾が祖先の樺太と逓送を行える地なり
間宮林蔵渡樺を記念し石標を建て部落のすべてが毎年の祭りを行えり 此石は当時をしのぶ唯一のもの也

宗谷アイヌ 柏木ベン




稚内港北防波堤ドーム

稚内港北防波堤ドームの由来

この防波堤は戦前 稚内~樺太との定期船発着所として築設されてもので、アーチ型構造物として立案され 昭和6年に着工し昭和11年に完成したのもであるが 激浪のため老朽が進み 昭和53年より改良施工し 完成は昭和55年である この構造物の名称は古代ローマの柱廊を思わせる独特の外観から通称「ドーム」と呼ばれ世界で唯一のものである

土木学会選奨土木遺産 2003 稚内港北防波堤ドーム