京都府庁敷地内にある 「京都守護職上屋敷跡」
幕末京都の警備を命じられた 京都守護職は、市中に数ヶ所の 広大な屋敷を構えました。 現在の府庁にあたる敷地もその 一つで、この敷地は「上屋敷」 跡にあたり、度重なる増改築を 経て慶応元年(一八六五)に完成 しました。
規模は現在の敷地ほぼすべて を占め、正門や敷石、玄関等は たいへん豪華なものだったとい われています。
京都府庁敷地内にある 「京都守護職上屋敷跡」
幕末京都の警備を命じられた 京都守護職は、市中に数ヶ所の 広大な屋敷を構えました。 現在の府庁にあたる敷地もその 一つで、この敷地は「上屋敷」 跡にあたり、度重なる増改築を 経て慶応元年(一八六五)に完成 しました。
規模は現在の敷地ほぼすべて を占め、正門や敷石、玄関等は たいへん豪華なものだったとい われています。
日光 神橋付近
2022年11月17日 撮影
板垣退助像が神橋の傍らより東照宮を望むように立っている。
板垣退助は、「板垣死すとも自由は死せず」の名言で知られる明治の政治家です。
明治の初期に自由民権運動を展開し、自由党を編成。土佐(高知)出身。明治元年(1868) 戊辰戦争の時、彼は新政府軍の将として、日光廟に立てこもった大鳥圭介らの旧幕府軍を説得し、社寺を兵火から守ったと言われます。
その遺徳を讃え昭和4年に建設されたが最初の像は第二次大戦中に軍需に徴収された。昭和42年に再建。彫刻家、新関国臣の作。
動輪の由来
ここはかつて東京鉄道教習所があり、広大な敷地に校舎、大講堂、図書館、プール、寄宿舎など立派な施設が完備され、多数の鉄道マンが勉学にいそしんだ場所である。
当時の所在地
東京府北豊島郡西巣鴨町字池袋
敷地および建物
約37,000平方米の敷地に校舎、大講堂、寄宿舎など約100棟の建物があった。
存在した時期
大正13年(1924年)~昭和29年(1954年)
またこの地は鉄道開通50年記念事業の一環として設立認可された財団法人鐵道育英会により設立した東京鐵道中学が東京鐵道教習所内に開校し、後に東京育英中学、東京育英中学校、」東京育英高等学校、芝浦工業大学高等学校と改称し、昭和57年まで存在していた場所であもある。
存在した時期
大正13年(1924年)~昭和57年(1982年)
これらの施設は昭和20年4月14日の東京大空襲で一旦焼失した。
なお、この地は成蹊学園発祥の地でもあり、若者と教育に由緒深い土地柄である。
雷神山 児童遊園
雷神山の由来
應徳年間(1084-1087)疫病流行の折、これを鎮めるため雷神を祀った雷(いかずち)神社が建てられた。以来この土地は雷神山と呼ばれ、病気平癒を祈願して多くの人々が参拝するようになったという。戦後、氷川神社に合祀され児童遊園として生まれ変わった現在雷神山の地名と参道の桜並木にその名残を留めている。