2019-04-27

赤木正雄博士の像

赤木正雄博士の像

文化勲章受章文化功労者農学博士赤木正雄君は兵庫県豊岡の人である 第一高等学校に学び新渡戸稲造博士の言に感じて志を砂防に立て 爾来官にあっては初代内務省第3技術課長とし 出でては全国治水砂防協会の創立者として現在まで60有餘年君の歩んだ途は砂防の一路である わが国の砂防は君により初めて方途が確立し 国会議員としての君の発言は砂防を国政に重からしめた 今回全国治水砂防協会員の総意により君の建設した砂防会館の前に寿像を立て以て君の志を後世に伝えんとするものである

昭和46年12月2日
全国治水砂防協会長 田中角栄






溜池発祥の碑

溜池発祥の碑

 溜池は江戸時代のはじめ、江戸城の防備を兼ねた外堀兼用の上水源として作られ水道の発祥地ともなり、徳川秀忠時代には鯉、鮒を放し蓮を植えて上野の不忍池に匹敵する江戸の名所となった。徳川家光は遊泳したとも伝えられ、江戸後期には日枝神社より赤坂4丁目に通じる料金を取った銭取橋が架設され「麦とろ家」数軒と出店で、にぎわったと伝われる。
 
 明治8年より埋め立てに着手し44年に完成したが、明治21年12月には赤坂溜池町が創立され、明治42年に市電が開通し、大正10年5月に正式な町会として溜池町会が発足し、溜池角の小松ビルは元は演伎座と云う芝居館として人気を煽り東京オリンピック以後はビル街として発展し、町会名も「赤坂溜池町会」と改称し今日に到り、地下鉄新駅「溜池山王駅」の開通を記念し建立とした。(赤坂溜池町会・文責)

平成9年8月吉日 東京都 港区

2019-04-09

子者清水

子者清水

 江戸幕府は下総国ほかに野馬を育てる牧を設けました。現在の習志野台一帯は広大な下野牧の一部でありました。その一角に、「子は清水、親は酒」という民話が伝えられる泉がありました。享保7年(1722年)の小金下野牧図には「コハ清水ト云出水有」と記され、この近辺にあった泉はすでに”こは清水”と呼ばれていたことがわかります。明治以降、牧が陸軍演習場になると、泉は軍馬の水吞み場として整備されました。昭和3年の習志野演習場図には「子者清水」とあります。戦後、演習場は畑地として開拓され、子者清水は生活用水に利用されました。子供達の遊び場でもありましたが、昭和30年代後半の習志野台団地の造成で住宅街となりました。地形は変わりましたが3丁目3番3号棟付近からこの辺りにありました。


川舟「こうりんぼう」と十二沢川

川舟「こうりんぼう」と十二沢川
 
この地は、昭和初期まで十二沢川と魚野川の合流地点でした。
 左の写真は、当時の合流点付近の写真で昔の川辺の状況とこうりんぼうの様子をうかがうことが出来ます。
 十二沢川の河川改修工事により、写真に映し出されている石垣が発見されました。記念として石垣の一部をここに復元します。平成21年5月









道元禅師示寂の地

道元禅師示寂の地
 この地は、曹洞宗の開祖道元禅師が生涯を閉じたところである。
 道元禅師は、正治2年(1200年)に京都で生まれ、比叡山で出家の後、建仁寺の栄西の門に入って禅を学び、貞応2年(1223年)に入宋した。帰国後、建仁寺に足をとどめたが、その後、深草に興聖寺(後に宇治に移る)を建て、教化活動を続けた。晩年にいたって、権勢逃れ、越前(福井県)の地に永平寺を創建し、釈迦正伝の仏法である坐禅の厳格な宋風を樹立した。
 建長5年(1253年)病の療養のために弟子懐奘を伴って上洛し、この地(下京区高辻通西洞院西入)にあった俗弟子寛念の屋敷に滞在し同年8月に54歳の生涯を閉じた。