2019-04-27

溜池発祥の碑

溜池発祥の碑

 溜池は江戸時代のはじめ、江戸城の防備を兼ねた外堀兼用の上水源として作られ水道の発祥地ともなり、徳川秀忠時代には鯉、鮒を放し蓮を植えて上野の不忍池に匹敵する江戸の名所となった。徳川家光は遊泳したとも伝えられ、江戸後期には日枝神社より赤坂4丁目に通じる料金を取った銭取橋が架設され「麦とろ家」数軒と出店で、にぎわったと伝われる。
 
 明治8年より埋め立てに着手し44年に完成したが、明治21年12月には赤坂溜池町が創立され、明治42年に市電が開通し、大正10年5月に正式な町会として溜池町会が発足し、溜池角の小松ビルは元は演伎座と云う芝居館として人気を煽り東京オリンピック以後はビル街として発展し、町会名も「赤坂溜池町会」と改称し今日に到り、地下鉄新駅「溜池山王駅」の開通を記念し建立とした。(赤坂溜池町会・文責)

平成9年8月吉日 東京都 港区

2019-04-09

子者清水

子者清水

 江戸幕府は下総国ほかに野馬を育てる牧を設けました。現在の習志野台一帯は広大な下野牧の一部でありました。その一角に、「子は清水、親は酒」という民話が伝えられる泉がありました。享保7年(1722年)の小金下野牧図には「コハ清水ト云出水有」と記され、この近辺にあった泉はすでに”こは清水”と呼ばれていたことがわかります。明治以降、牧が陸軍演習場になると、泉は軍馬の水吞み場として整備されました。昭和3年の習志野演習場図には「子者清水」とあります。戦後、演習場は畑地として開拓され、子者清水は生活用水に利用されました。子供達の遊び場でもありましたが、昭和30年代後半の習志野台団地の造成で住宅街となりました。地形は変わりましたが3丁目3番3号棟付近からこの辺りにありました。


川舟「こうりんぼう」と十二沢川

川舟「こうりんぼう」と十二沢川
 
この地は、昭和初期まで十二沢川と魚野川の合流地点でした。
 左の写真は、当時の合流点付近の写真で昔の川辺の状況とこうりんぼうの様子をうかがうことが出来ます。
 十二沢川の河川改修工事により、写真に映し出されている石垣が発見されました。記念として石垣の一部をここに復元します。平成21年5月









道元禅師示寂の地

道元禅師示寂の地
 この地は、曹洞宗の開祖道元禅師が生涯を閉じたところである。
 道元禅師は、正治2年(1200年)に京都で生まれ、比叡山で出家の後、建仁寺の栄西の門に入って禅を学び、貞応2年(1223年)に入宋した。帰国後、建仁寺に足をとどめたが、その後、深草に興聖寺(後に宇治に移る)を建て、教化活動を続けた。晩年にいたって、権勢逃れ、越前(福井県)の地に永平寺を創建し、釈迦正伝の仏法である坐禅の厳格な宋風を樹立した。
 建長5年(1253年)病の療養のために弟子懐奘を伴って上洛し、この地(下京区高辻通西洞院西入)にあった俗弟子寛念の屋敷に滞在し同年8月に54歳の生涯を閉じた。



2018-11-21

水戸弘道館

水戸弘道館 

江戸時代の総合大学 
国指定特別史跡 重要文化財

(茨城県営都市公園HPより)

沿革 
 旧水戸藩の藩校である弘道館は、徳川斉昭が推進した藩政改革の重要施設の一つとして開設された。
 
弘道館建学の精神
神儒一致 忠孝一致 文武一致 学問事業一致 治教一致

開学
仮開学 天保12年 1841年 8月1日
本開学 安政 4年 1857年 5月9日

藩士とその子弟が学んだ 入学年齢は15歳卒業はなし
学問と武芸の両方が重視された

多様な科目
学問では 儒学 礼儀 歴史 天文 数学 地図 和歌 音楽など
武芸では 剣術 槍  柔術 兵学 鉄砲 馬術 水泳など

幕末の動乱を経て 明治5年 1872年 の学制発布により閉鎖

幾度の戦火を免れた正門、正庁及び至善堂は、昭和39年 1964年 に国の重要文化財に指定された。

館内には、藩主が臨席して文武の大試験が行われた正庁の間や對試場がある。
徳川慶喜が幼いころに学び、大政奉還の後に恭順謹慎生活を送った至善堂がある。

厳冬の中いち早く咲く蝋梅や斉昭が愛した幾種もの梅、鮮黄色の小花を集めてつける山茱萸。斉昭夫人ゆかりの左近の桜。夏の日差しに映える百日紅」など、四季折々の美しい花や樹木と出会える。

ビデオ「弘道館探訪」へのリンク