2015-11-30

陸軍工兵 第4連隊 営門跡

陸軍工兵 第4連隊 営門跡

ここは 元工兵第四連隊(中部第29部隊)の営門であります。

兵舎は、明治42年より昭和20年まで存在しました。現在は改築されて学校、公園等に利用されております。

かつて在隊当時は多くの兵士を育成し、地域の防災に努め、人命救助に協力しました。

さきの第二次世界大戦においては、大陸戦線へあるいは太平洋戦域へと幾多の兵士が出動して帰らぬ人も多数ありました。

この営門は、終戦50年にあたり、かこの悲惨な戦争を再び繰り返す事のないように、高槻市民の平和モニュメントとして保存するものであります。

平成7年8月
元工兵第四連隊記念碑建立委員会
高槻市


















藤井竹外邸跡

藤井竹外邸跡


 孤高の詩人藤井竹外は、幕末の激動期を生きた高槻藩の中堅家臣でした。文化4年(1807)生まれの彼は名を「啓」とされていますが、これは嘉永7年(1854)初版の「竹外二十八字詩」稿本や書状に記された名前。藩役所の公式記録には「吉郎」とあります。家禄50石。給人席といますから、古くは代々知行地をうける権利をもつ家格で、時には政務の中枢を担いうる身分でもありました。以下はこちらで





高槻カソリック教会の高山右近像

カソリック 高槻教会の高山右近像

カソリック 高槻教会のHP (解説はこちらで)























2015-09-11

松浦武四郎翁の像

松浦武四郎翁の像

 北海道の名付け親 松浦武四郎翁は、 文政元年(1818)伊勢国川村(現 三重県三雲町)に代々郷士であった松浦家の四子として生まれる。

 翁は27歳の春、蝦夷地探検を発起以来6度に渡り蝦夷地を案内のアイヌの人々と踏査し、詳細で実情をあますところなく書き記された地図・絵図・記録は高く評価され、探検家・研究者として、その功績は偉大である。

 翁の身長は4尺8寸(1m45cm)、足の大きさは24cmと小柄ながら、その旺盛な精力と知識欲により未開の荒野を踏査・探検し、当地へも4度に渡って訪れ、鰊漁場の賑わいをきわめた往時の鬼鹿の歴史を詩に残している。

 松浦武四郎は、社会科学史上・文化史上に輝く燦然たる偉人であるとともに北海道の史実を証するものとして、今もなお道民の心のなかに生き続けている。


名にも似ず すがたやさしき女郎花 なまめき立てる おにしかの里   松浦武四郎




鬼鹿
小平鰊番屋 鰊文化歴史公園








三船遭難慰霊の碑

三船遭難慰霊の碑

碑文
昭和20年8月15日 太平洋戦争(ママ)終わる終戦後7日 昭和20年8月22日早暁の海は波穏やかにして 微風甲板を渡る
この日 泰東丸 第二新興丸 小笠原丸の三船は戦乱の樺太より緊急引揚の老幼婦女子乗組員 5,082名を乗せ鬼鹿沖にさしかかりしが突如旧ソ連軍の潜水艦による雷攻撃に遭い瞬時にして沈没或いは大破し 1,708名の尊き命を奪わる
留別の地樺太を脱し数刻夢に描きし故山を目睫にしてこの惨禍に遭う悲惨の極みなり
星霜ここに30年我等同胞慟哭の海に向かい霊鎮まらんことを祈りつつこの碑を建つ

昭和50年8月22日
樺太引揚三船遭難慰霊碑建立合同委員会