2015-09-11

間宮林蔵 渡樺出港の地の碑 および 宗谷アイヌ 柏木ベンの碑


間宮林蔵 渡樺出港の地の碑

間宮林蔵は、2度にわたって樺太を探検しました。第1回目は、1808年(文化5年)4月13日(新暦5月8日)に、松田伝十郎とともに宗谷を出発。シラヌシから東海岸を調査した後、西海岸のノテトで伝十郎と合流。間宮海峡の存在を確認して、閏6月20日(新暦8月11日)にシラヌシから宗谷に戻りました。

第2回目の出発は、宗谷帰着から20日ほど後の7月13日(新暦9月3日)。単身で渡樺した林蔵は6人のアイヌを雇い、西海岸を北上。トンナイで一冬を過ごし海峡を確認した後、ノテトから公益に向かうニブフの一行に同行して大陸のデレンに渡り、その年の晩秋に宗谷に戻りました。

林蔵の足跡は、村上貞助によって『北夷分界余話』『東韃地方紀行』としてまとめられ、1811年(文化8年)幕府に提出されました。この2冊は、「樺太編」「大陸編」というべきもので、前者には、樺太の地名や地勢・民俗が。後者には、清国の仮府(一時的な役所)が置かれていたデレンを中心に、アムール川下流での調査が報告されており、現在でも、北方アジアを知る貴重な資料となっています。

稚内市教育委員会





稚内観光情報HP
https://www.city.wakkanai.hokkaido.jp/kanko/midokoro/spot/rinzoshuppatsu.html




此地は吾が祖先の樺太と逓送を行える地なり
間宮林蔵渡樺を記念し石標を建て部落のすべてが毎年の祭りを行えり 此石は当時をしのぶ唯一のもの也

宗谷アイヌ 柏木ベン




稚内港北防波堤ドーム

稚内港北防波堤ドームの由来

この防波堤は戦前 稚内~樺太との定期船発着所として築設されてもので、アーチ型構造物として立案され 昭和6年に着工し昭和11年に完成したのもであるが 激浪のため老朽が進み 昭和53年より改良施工し 完成は昭和55年である この構造物の名称は古代ローマの柱廊を思わせる独特の外観から通称「ドーム」と呼ばれ世界で唯一のものである

土木学会選奨土木遺産 2003 稚内港北防波堤ドーム









樺太犬供養塔

南極地域学術観測隊
樺太犬供養塔

白い南極の大陸で命を落とした15頭の”犬ぞり隊”の霊を慰めるための慰霊塔で、稚内公園の犬ぞり訓練所跡に、昭和36年10月、建立されたものです
観測隊がケルンをつくり、それを道標として雪原を前進したことから、慰霊碑は、三角のケルンに秩父硬石が張り巡らされています







樺太犬訓練記念碑

樺太犬訓練記念碑

 昭和31年 わが国が国際地球観測年の行事の一環として、南極地域観測に参加するにあたり北海道内から集まった樺太犬30数頭は、この地でソリの訓練を受けた。その中の代表22頭は観測隊員とともに遠く南極に渡り、昭和基地の建設に、また南極大陸内の調査探検にソリを曳いて立派にその使命を果たした。ここに記念碑を建て、永久にその功績をたたえる。

昭和34年11月(1959 11)
日本学術振興会
南極地域観測後援特別委員会






2015-09-07

九人の乙女の碑

稚内公園にて

「九人の乙女の碑」

戰いは終わつた。それから五日昭和二十年八月二十日、ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如日本軍との戰いが始まつた。
戰火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女等は死を以って己の職場を守った
窓越しにみる砲彈のさく烈、刻々と迫る身の危険、今はこれまでと死の交換台に向かい「皆さんこれが最後です さようなら さようなら」の言葉を残して静かに青酸苛里をのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた
戦争は再びくりかえすまじ、平和の祈りをこめて尊き九人の乙女の靈を慰む



殉職した九人の乙女 
高石ミキ(24) 
可香谷シゲ(23) 
吉田八重子(21) 
志賀晴代(22) 
渡辺照(17) 
高城淑子(19) 
松橋みどり(17) 
伊藤千枝(22) 
沢田キミ(18)
稚内旅行 クチコミガイドより
http://4travel.jp/domestic/area/hokkaido/hokkaido/wakkanai/wakkanai/hotplace/10007832-map/#contents_inner


寄贈
東京都 本郷 新
札幌市 上田佑子

本郷新
高村光太郎に師事した彫刻家。すぐ近くにある「氷雪の門」の作者。わだつみ像も。
1948年 日本共産党入党
ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%83%B7%E6%96%B0

上田佑子
樺太引揚者
稚内旅行 クチコミガイドより
http://4travel.jp/domestic/area/hokkaido/hokkaido/wakkanai/wakkanai/hotplace/10007832-map/#contents_inner


参考
ブログ 「小名木善行 ねずさんの ひとりごと」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2740.html










This monument was built in honor of the souls of the nine maiden telephone operators who perished in the national border laid along Maoka Post Office Karafuto was connected to the soviet Union by the national border laid along the 50th parallel north. In August 1945, the border was unexpectedly attacked by Soviet Armed Forces, breaking 40 years of silence. As evacuation of the island residents begun, war raged through the town of Maoka. Gunfire and explosions could be seen from the windows. In the face of certain danger, the telephone operators stayed at their switchboards until the very last.
"Everyone, this is the end, Farewell, farewell..." Leaving these final words, they took their lives with potassium cyanide, The date was August 20th, five days after the war ended.

2015-05-03

西武池袋線中村橋駅 古レールの記念保存

西武池袋線中村橋駅 古レールの記念保存

OH TENNESSEE-6040-ASCE-I-1924
アメリカのテネシー社製。
1924年圧延。
「OH」は平炉(Open Heath)で精錬したことをあらわす。
「6040」は60ポンド、40は規格番号をあらわす。
「I-1924」は1924年1月圧延をあらわす。











KROLHUTA 1927 M I
ポーランド南部のクロレフスカ・フータ製鉄所製。
1927年圧延。
「M」はマルチン平炉をあらわす。
「I」は1月圧延をあらわす。



60 A 1928 IIIIIIII
官営の八幡製鐵所時代(1901年~1934年)に圧延。
「60A」は60ポンドを表し、Aはアメリカ土木技術協会(ASCE)規格であることをあらわす。
I の数で8月圧延をあらわす。










CARNEGIE 1914 ET I 45 A
アメリカのカーネギースチール社製。
1914年圧延。
「ET」は「エドガートムソン工場」で圧延されたことをあらわす。
「45A」は45ポンド数を表し、Aはアメリカ土木技術協会(ASCE)規格であることをあらわす。










H-W-60LBS ASCE-XI-1925
フランスのウエンデル社製。
1925年圧延。
「60LBS」は60ポンドレールをあらわす。
「ASCE」はアメリカ土木技術協会規格をあらわす。
「AI」は11月をあらわす。









MICHEVILLE I 1926 T.B.  A.S.C.E. 60 lbs
フランスのミッシュビル社製。
「I」は1月圧延をあらわす。
「T.B.」は製造法の種類をあらわす。
「A.S.C.E.」はアメリカ土木技術協会規格をあらわす。
「60」は60ポンドをあらわす。







G.H.H.1926
ドイツのブーテホフヌング・ヒュッテ製鉄所製。
1926年圧延。





2015-04-30

工学院大学学園發祥之地

工学院大学学園發祥之地

明治二十一年我国工業の黎明期に當り、此地に工手学校が創設された。爾来工業界の各分野に 有能な技術者を送った数は実に三萬を超えその発展に多大の貢献を致した事は周知である
関東大震災の後昭和三年出身者の熱意と努力により新宿に宏壮な校舎が建設され校名も工学院 と改められ、時世の進運に則して終始発展充実 を続けて来た。更に昭和二十四年に至り学園に 工学院大学が設立され最高の工業教育機関として工業報国の伝統精神を発揚しつゝある
近く創立七十周年を迎えんとし先輩の遺徳を偲 び後進の発奮を促すため有志相図り学園発祥の 地に記念碑を建てる

       工学院大学校友会
            題字 工学博士 桂 弁三 書
            碑文 工学博士 野口尚一 撰

 学園歌
  一 見よ 清浄の淀橋に
      校舎は高くそびえたり
    実力の旗ひるがえし
      我等が健児意気高し
    誠実努力撓みなく
      進めいそしめ国のため

  二 見よ先輩の螢雪は
      工業日本を築きたり
    築地の風に鍛えたる
      師兄の意気を受継ぎて
    誠実努力撓みなく
      進めいそしめ国のため






シーボルトの胸像

シーボルト (1796-1866)

 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、オランダの商館医員として文政6年(1823年)7月、長崎に到着し、診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなどして活躍した。

 同9年正月、商館長と共に江戸へ向かい、3月4日、日本橋の長崎屋に止宿し、4月12日出発するまでの間、江戸の蘭学者に面接し大きな影響を与えた。しかし、同11年シーボルト事件が発生し、12月に日本から追放された。後に安政6年(1859年)幕府顧問として再来日したが、間もなく帰国しミュンヘンで没した。

 彼の江戸における指導は、江戸蘭学発展のために貢献するところが大きかった。この地が江戸蘭学発祥の地であり、且つ彼が長崎で設けた娘いねが築地に産院を開業したこともあり、また明治初期から中期にかけてこの一体に外国人居留地が設けられていたことから、ここに彼の胸像を建て、日本への理解と日蘭の橋渡し役としての功績に報いるものである。

中央区教育委員会

Een Vorstbeeld de Siebold

 Aangeboden door de Universiteit  van Leiden in Nederland aan de Chuo Wijk in Tokyo. mede namens de Isaac Alrfred Ailion Foundation en in samenwerking met de Asahi Shinbun.

18 Juni 1988




 Presented to Chuo Ward, Tokyo, by Leiene University, the Netherlands, and the Isaac Alfred Ailion Foundation, in cooperation with Asahi Shinbun.

June 18th ,1988




この胸像は、オランダのダイデン大学とイサーク アルフレッド・エリオン財団から日蘭友好を目的として、朝日新聞社の尽力によって中央区に寄贈されました。

昭和63年6月18日