親鸞聖人旧蹟 小島草庵跡
権力闘争に明け暮れる支配者の下 人間いかに生きるべきか 真実を求めてやまない親鸞は 愚劣な政治権力に追われて京から越後へ 茨の道を踏み分けて幾山河 やがて妻恵信尼と息信蓮を伴い 初めて常総の地を踏み 小島の荘に入られたのは建保2年聖人42歳のときである
煩悩を断ずることなく他力本願の念仏布教に徹する聖人の姿は 慈愛と活力に満ち溢れた純粋崇高な仏の姿であった
小島草庵は 恵信尼が「二幅の御影」を夢みられたところ 聖人はこの地にとどまること3年 草庵を門弟の蓮位坊に譲って稲田に移られ常総在住20年 衆生と共に苦しみ悲しみ逞しく生きぬく他力本願の立教開宗の偉業を完成されたのである
苛烈な圧政と 極度の貧困に喘ぐ人びとの心に 浄土欣求の灯を点じ 荒廃しゆく常総の天地に 弥陀の光明を輝かせた不滅の聖業は 日本人の胸底に深く刻み込まれ 永遠に生きつづけている
新いばらきタイムス社は 聖人生誕800年 立教開宗750年を記念し数多くの県民の方々と聖人の高弟小川の豪族 幡谷二郎信勝唯信房の後裔 幡谷仙三郎氏の篤志に依り この地に遺徳顕彰碑を建立するものである
1973年 11月吉日 大津平八郎誌
親鸞聖人遺徳碑建立委員会
名誉会長 茨城県知事 岩上 二郎
委員長 下妻市長 加藤 俊介
副委員長 新いばらきタイムス社長 鈴木 正樹
篤志寄付 幡谷 仙三郎 東茨城群小川町
碑施工 原石寄進 川俣石材店 川俣 正雄 西茨城郡岩瀬町
市指定史跡 小島草庵跡
指定年月日 昭和52年3月22日
親鸞は、その生い立ちから、配流、妻帯、東国移住の動機、小島居住説をはじめ、その生涯について、いろいろな論がなされており、親鸞伝の決定版はまだ見られないが、当地には次のような伝承が残されている。
越後流罪と滞留7年の後、親鸞は建保2年(1214年)、妻子を伴って上野国佐貫を経て、常陸国に入り、最初に居住したのが、この小島草庵である。小島郡司の武弘が親鸞の徳を慕い、この地に草庵を設けて迎えた。ここに3年間滞留し、越後で果たせなかった真宗念仏の伝道に積極的に乗り出した。いわばこの草庵(三月寺)こそ真宗開祖の親鸞が関東において真価を発揮した最初の土地である。
親鸞の高弟蓮位坊は当地出身といわれ、子孫は下間(しもつま)氏と称して、鎌倉時代から現代に至るまで、東・西本願寺の坊官を勤めている。
草庵跡には「親鸞聖人旧跡」、「三歳御住居」とした古碑、欽明天皇、用明天皇、聖徳太子の墓に、後に親鸞の墓を加えて「四体仏」と呼ぶ五輪塔と、親鸞を慕ったという「稲田恋しの銀杏」の大樹がある。
平成14年3月 下妻市教育委員会