高槻城跡公園の 高山右近像
高山右近
高山右近は、戦国末期の高槻城主。キリシタン大名であり、天文21年(1552)頃に、摂津高山(現豊能郡豊能町)で生まれたとされています。
右近と父・高山飛騨守は、主君和田惟政の敵荒木村重とむすび、惟政の遺子惟長を追放し、元亀4年(1573) 右近は高槻城主となりました。摂津の国主である荒木村重が織田信長に反旗をひるがえした天正6年(1578)、村重へ子や妹を人質にだしていた右近に、信長はオルガンティーノ司祭を使いとし、降伏をすすめました。これに対し右近は、苦悩の末開城したといわれています。その後右近は、山崎合戦には、秀吉に仕え功績を挙げました。
右近が高槻城主であったのは、播磨明石(明石市)に移封されるまでの12年間でした。
右近は、千利休の七哲の一人である茶人でもあり、「利休極上一の弟子也」ともうたわれています。。天正14年頃秀吉と利休を茶会に招いたこともあり、南坊と号していました。
キリシタン大名としての右近は、天正2年(1574)城の側に壮麗な教会を建て、キリスト教の伝道に努めました。当時2万5千人の領民の内1万8千人(約72%)がキリシタンになったといわれています。
秀吉が、バテレン追放令を発したとき、右近は改宗を拒否し、領地を没収されています。禁教令をだした徳川幕府により、慶長19年(1614)10月、国外追放処分を受けました。マニラ到着後40日ほどで熱病におかされ、慶長20年2月3日になくなっています。
平成8年3月
高槻市教育委員会
2015-12-01
2015-11-30
陸軍工兵 第4連隊 営門跡
陸軍工兵 第4連隊 営門跡
ここは 元工兵第四連隊(中部第29部隊)の営門であります。
兵舎は、明治42年より昭和20年まで存在しました。現在は改築されて学校、公園等に利用されております。
かつて在隊当時は多くの兵士を育成し、地域の防災に努め、人命救助に協力しました。
さきの第二次世界大戦においては、大陸戦線へあるいは太平洋戦域へと幾多の兵士が出動して帰らぬ人も多数ありました。
この営門は、終戦50年にあたり、かこの悲惨な戦争を再び繰り返す事のないように、高槻市民の平和モニュメントとして保存するものであります。
平成7年8月
元工兵第四連隊記念碑建立委員会
高槻市
ここは 元工兵第四連隊(中部第29部隊)の営門であります。
兵舎は、明治42年より昭和20年まで存在しました。現在は改築されて学校、公園等に利用されております。
かつて在隊当時は多くの兵士を育成し、地域の防災に努め、人命救助に協力しました。
さきの第二次世界大戦においては、大陸戦線へあるいは太平洋戦域へと幾多の兵士が出動して帰らぬ人も多数ありました。
この営門は、終戦50年にあたり、かこの悲惨な戦争を再び繰り返す事のないように、高槻市民の平和モニュメントとして保存するものであります。
平成7年8月
元工兵第四連隊記念碑建立委員会
高槻市
登録:
投稿 (Atom)