2014-10-27

上野駅東西自由通路建設地点の遺跡とパンダ橋由来

上野駅東西自由通路建設地点の遺跡とパンダ橋由来

上野駅東西自由通度建設地点の遺跡

台東区上野公園五番

 東京都立上野公園内は上野忍岡遺跡群として縄文時代から近世の遺跡が広がり、江戸時代には寛永寺境内地であった。本遺跡は上野台地の東南の縁辺に位置し、北西に東京文化会館構内・国立西洋美術館構内の遺跡が分布している。当地は近世には寛永11年(1634年)から寛永寺子院の常照院が存在していたが、1678年に凌雲院が移転してきた。凌雲院の境内は当地から東京文化会館と国立西洋美術館まで続き、18世紀中頃以降は徳川御三卿(田安・一橋・清水家)の墓所となっていた。国立西洋美術館構内の発掘調査では清水家の墓が発見され、東京文化会館においても墓が確認されている。

 当地は平成10年(1998年)に東西自由通路(現パンダ橋)建設に伴い調査を実施した。調査地の北東側に17世紀頃の「段切状遺構」(雛壇状の区画)が検出され、また「地下室」等も見られ常照院に関係するものと推測される。その後北半分は整地されて墓所となっており、19世紀頃の板石組の石槨墓(5基)や墓所を区画する石組が発見され、一橋家の墓所と推測される。遺物では「地下室」から中国製磁器、銅製灯明具、松竹・鶴亀文印刻の土師質(素焼き)皿などが出土した。

 近世以前では縄文時代前期、弥生時代末期頃、古墳時代後期、奈良・平安時代の住居跡が調査されており、古墳時代の住居跡は焼失して屋根材が炭化したまま残っていた。その他に道路状遺構や縄文時代の集石などが発見されている。火災住居跡からは完全な形の土師器坏、金環(金銀貼の銅製耳環)が出土し、付近の摺鉢山古墳等に関連した集落とも推測される。

 1998年発掘調査での出土遺物は平成12年度台東区有形文化財(考古資料)に登録されている。

 平成15年3月 台東区教育委員会



パンダ橋 


 パンダ橋は上野をイメージし、子供から大人まで広く愛されています。この橋の名は、温かみがありかつ覚えやすいことから、公募により決まりました。
 なお、この石は接触変成岩のひとつで、花崗岩マグマが上昇中に砂岩や頁岩などをとりこんでできたもので、白と黒のコントラストの面白さがパンダ石と呼ばれています。





2014-10-25

深川三十三間堂

深川三十三間堂


ウィキペディア 江戸三十三間堂 には次のようにあります。

京都東山の三十三間堂(蓮華王院)での通し矢の流行をうけて、寛永19年(1642年)11月、弓師備後という者が幕府より浅草の土地を拝領し、京都三十三間堂を模した堂を建立したのに始まる。翌寛永20年4月の落成では、将軍徳川家光の命により旗本吉田久馬助重信日置流印西派吉田重氏の嫡子)が射初め(いぞめ)を行った。その後元禄11年(1698年)の勅額火事により焼失したが、元禄14年(1701年)富岡八幡宮の東側(現東京都江東区富岡2丁目付近)に再建された。しかし明治5年(1872年)、江戸三十三間堂は廃されて堂宇は破却された。







2014-10-19

旧川崎銀行千葉支店 千葉市指定有形文化財

旧川崎銀行千葉支店 千葉市指定有形文化財

この建物は、昭和2年(1927年)、建築家・矢部又吉(明治21年~昭和16年)の設計により川崎銀行千葉支店として建設され、昭和18年、吸収合併により三菱銀行千葉支店となりました。

その後、昭和46年から平成2年まで千葉市中央地区市民センターとして利用されました。

ネオ・ルネッサンス様式をもつ歴史的建造物で、美術館・中央区役所のけんせつにあたり”鞘堂方式”により保存・再生し「さや堂ホール」としてコンサートなど文化表現の場としてご利用いただけます。





































千葉寺

千葉寺

「 市内最古の寺院で、奈良時代の和銅2年(709年)の創建と伝えられ、発掘調査の結果、奈良時代末期には四間×四間の瓦葺きの金堂が存在したことが確認された。

 境内の仁王門と鐘楼堂は、文政11年(1828年)に建立されたものである。

 遺物には、奈良時代の布目瓦、平安時代の経筒、鎌倉時代の常滑焼骨壺、室町時代の青銅製の梅竹透釣灯篭(国指定重要文化財。東京国立博物館所蔵)、桃山時代の五輪石塔など、貴重なものが数多くある。」













 千葉寺の公孫樹 千葉県指定天然記念物 昭和10年11月12日指定

 この大きなイチョウは、和銅2年(709年)、僧行基がもたらしたものと伝える。樹高30m、目通り8mもあり、神奈川県鎌倉市の「鶴岡八幡のイチョウ」よりも大きい。樹勢旺盛で地上3mから枝を張り、乳柱がたれているがこれを煎じて飲むと母乳がよく出るようになると伝えられている。

It is said that the ginkgo tree was planted in 709 by a priest named Gyoki and its size exceeds the one at Hachiman Shrine in Kamakura.













「来る年も 八十八か所 巡り来て 此の千葉寺に 心 極楽」  昭和55年9月吉日 小島孝衛













千葉笑

 また千葉笑とて、としとごのしはすのつごもりの夜、里人この寺によりつどひ、各おもておほひして、地頭村長などの邪曲事(よこしまこと)よりはじめ、人のよからぬふるまひどもを、あげつらひののしりあふことありといへり、こは人々のおこたりをいさむるわざなれば、筑波嶺のかがひなどには、いといとまされる風俗といふべし。
相馬日記 高田興清(文政元年)

千葉寺や 隅に子どもも むり笑い   小林一茶 (文政6年)





2014-10-18

ふなばしアンデルセン公園 「平和を呼ぶ」岡本太郎

ふなばしアンデルセン公園

「平和を呼ぶ」岡本太郎





「この像は、船橋市民が世界の恒久平和を願い昭和61年12月19日「平和都市宣言」をしたことを記念し、ここに建立したものである。なお、建立にあたっては財団法人日本宝くじ協会の助成を受けたものである。
昭和61年10月 船橋市」







2014-10-13

親鸞聖人旧蹟 小島草庵跡

親鸞聖人旧蹟 小島草庵跡





権力闘争に明け暮れる支配者の下 人間いかに生きるべきか 真実を求めてやまない親鸞は 愚劣な政治権力に追われて京から越後へ 茨の道を踏み分けて幾山河 やがて妻恵信尼と息信蓮を伴い 初めて常総の地を踏み 小島の荘に入られたのは建保2年聖人42歳のときである

煩悩を断ずることなく他力本願の念仏布教に徹する聖人の姿は 慈愛と活力に満ち溢れた純粋崇高な仏の姿であった

小島草庵は 恵信尼が「二幅の御影」を夢みられたところ 聖人はこの地にとどまること3年 草庵を門弟の蓮位坊に譲って稲田に移られ常総在住20年 衆生と共に苦しみ悲しみ逞しく生きぬく他力本願の立教開宗の偉業を完成されたのである

苛烈な圧政と 極度の貧困に喘ぐ人びとの心に 浄土欣求の灯を点じ 荒廃しゆく常総の天地に 弥陀の光明を輝かせた不滅の聖業は 日本人の胸底に深く刻み込まれ 永遠に生きつづけている


新いばらきタイムス社は 聖人生誕800年 立教開宗750年を記念し数多くの県民の方々と聖人の高弟小川の豪族 幡谷二郎信勝唯信房の後裔 幡谷仙三郎氏の篤志に依り この地に遺徳顕彰碑を建立するものである
1973年 11月吉日 大津平八郎誌

親鸞聖人遺徳碑建立委員会
名誉会長 茨城県知事 岩上 二郎
委員長  下妻市長  加藤 俊介
副委員長 新いばらきタイムス社長 鈴木 正樹

篤志寄付 幡谷 仙三郎 東茨城群小川町
碑施工 原石寄進 川俣石材店 川俣 正雄 西茨城郡岩瀬町










市指定史跡 小島草庵跡
指定年月日 昭和52年3月22日

 親鸞は、その生い立ちから、配流、妻帯、東国移住の動機、小島居住説をはじめ、その生涯について、いろいろな論がなされており、親鸞伝の決定版はまだ見られないが、当地には次のような伝承が残されている。

 越後流罪と滞留7年の後、親鸞は建保2年(1214年)、妻子を伴って上野国佐貫を経て、常陸国に入り、最初に居住したのが、この小島草庵である。小島郡司の武弘が親鸞の徳を慕い、この地に草庵を設けて迎えた。ここに3年間滞留し、越後で果たせなかった真宗念仏の伝道に積極的に乗り出した。いわばこの草庵(三月寺)こそ真宗開祖の親鸞が関東において真価を発揮した最初の土地である。

 親鸞の高弟蓮位坊は当地出身といわれ、子孫は下間(しもつま)氏と称して、鎌倉時代から現代に至るまで、東・西本願寺の坊官を勤めている。

 草庵跡には「親鸞聖人旧跡」、「三歳御住居」とした古碑、欽明天皇、用明天皇、聖徳太子の墓に、後に親鸞の墓を加えて「四体仏」と呼ぶ五輪塔と、親鸞を慕ったという「稲田恋しの銀杏」の大樹がある。

平成14年3月 下妻市教育委員会