2015-04-30

工学院大学学園發祥之地

工学院大学学園發祥之地

明治二十一年我国工業の黎明期に當り、此地に工手学校が創設された。爾来工業界の各分野に 有能な技術者を送った数は実に三萬を超えその発展に多大の貢献を致した事は周知である
関東大震災の後昭和三年出身者の熱意と努力により新宿に宏壮な校舎が建設され校名も工学院 と改められ、時世の進運に則して終始発展充実 を続けて来た。更に昭和二十四年に至り学園に 工学院大学が設立され最高の工業教育機関として工業報国の伝統精神を発揚しつゝある
近く創立七十周年を迎えんとし先輩の遺徳を偲 び後進の発奮を促すため有志相図り学園発祥の 地に記念碑を建てる

       工学院大学校友会
            題字 工学博士 桂 弁三 書
            碑文 工学博士 野口尚一 撰

 学園歌
  一 見よ 清浄の淀橋に
      校舎は高くそびえたり
    実力の旗ひるがえし
      我等が健児意気高し
    誠実努力撓みなく
      進めいそしめ国のため

  二 見よ先輩の螢雪は
      工業日本を築きたり
    築地の風に鍛えたる
      師兄の意気を受継ぎて
    誠実努力撓みなく
      進めいそしめ国のため






シーボルトの胸像

シーボルト (1796-1866)

 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、オランダの商館医員として文政6年(1823年)7月、長崎に到着し、診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなどして活躍した。

 同9年正月、商館長と共に江戸へ向かい、3月4日、日本橋の長崎屋に止宿し、4月12日出発するまでの間、江戸の蘭学者に面接し大きな影響を与えた。しかし、同11年シーボルト事件が発生し、12月に日本から追放された。後に安政6年(1859年)幕府顧問として再来日したが、間もなく帰国しミュンヘンで没した。

 彼の江戸における指導は、江戸蘭学発展のために貢献するところが大きかった。この地が江戸蘭学発祥の地であり、且つ彼が長崎で設けた娘いねが築地に産院を開業したこともあり、また明治初期から中期にかけてこの一体に外国人居留地が設けられていたことから、ここに彼の胸像を建て、日本への理解と日蘭の橋渡し役としての功績に報いるものである。

中央区教育委員会

Een Vorstbeeld de Siebold

 Aangeboden door de Universiteit  van Leiden in Nederland aan de Chuo Wijk in Tokyo. mede namens de Isaac Alrfred Ailion Foundation en in samenwerking met de Asahi Shinbun.

18 Juni 1988




 Presented to Chuo Ward, Tokyo, by Leiene University, the Netherlands, and the Isaac Alfred Ailion Foundation, in cooperation with Asahi Shinbun.

June 18th ,1988




この胸像は、オランダのダイデン大学とイサーク アルフレッド・エリオン財団から日蘭友好を目的として、朝日新聞社の尽力によって中央区に寄贈されました。

昭和63年6月18日






2015-04-29

東京駅5番6番ホーム

東京駅5番6番ホーム

有名な100年柱のホームです。2015年4月18日撮影

(朝日新聞記事)東京駅開業時の「100年柱」撤去 5・6番線ホーム



















南高橋(みなみたかはし)

南高橋(みなみたかはし)

所在地 東京都中央区新川2丁目 湊1丁目 (亀島川)

 創架年代は、昭和6年(1931年)に起工、同7年3月に竣工。

 現在の南高橋の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみでした。大正12年(1953年)の関東大震災ののち、街路の大規模な区画整理が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀1丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。

 東京市は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。そのため明治37年(1904年)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の三連トラスの中央部を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したものです。

 都内において、珍しくも明治37年のトラス橋の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の土木遺産として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)についで2番めに古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で6番目に古い橋梁になります。区民有形文化財に登録されています。

平成14年3月 中央区教育委員会






史蹟 運上所跡 東京税関発祥の地

史蹟 運上所跡 東京税関発祥の地

 江戸幕府は、慶応3年(1867年)に、江戸築地鉄砲洲明石町の一帯を外国人居留地と定め、この地に税関業務等を行う運上所を設置しました。

 これが、東京税関の始まりです。



電信創業之地

電信創業之地

東京電信局跡
明治2年12月25日開始
紀元2600年
逓信省

電信創業記念碑の由来

 明治2年9圧19日(太陽暦10月23日)横浜裁判所と東京築地運上所内に設けられた「傳信機役所」を結ぶ約32キロメートルの電信線架設工事が開始され、同年12月25日に業務を開始した。これが、我が国における公衆電気通信の最初である。

 この記念碑は、先駆者の業績を後世に伝えるため、昭和15年に建立されたもので、昭和53年、南南東約40メートルの地点から当地へ移設されたものである。






月島の渡し跡


月島の渡し跡

所在地 東京都中央区築地7丁目18番地 明石町14番 地域

 「月島の渡し」は、月島1号地の埋め立てが完成して間もない明治25年(1892年)11月、土木請負業の鈴木由三郎が、南飯田町(現在の築地7丁目18番)から月島(現在の月島3丁目24番)へ、手漕ぎの船で私設の有料渡船を開始したことに始まります。

 明治34年(1901年)、月島への交通の重要性を考慮した東京市が渡船の市営化を決め、翌37年に汽船曳舟2隻で交互運転を開始し、渡賃も無料となりました。明治44年には、臨海工業地帯へと発展した月島への乗客増加に対応するため、徹夜渡船も開始されました。

 月島の渡しの渡船場は、当初、明石橋橋詰の南飯田町にありましたが、東京市に移管されて運営が開始される明治35年以降は、明石町(現在の明石町14番)に渡船場を移設し、大いに利用されてきました。

 昭和15年(1940年)に勝鬨橋が架橋されたことにより、渡船の運行に終止符が打たれましたが、明治から昭和にいたるまで住民や工場へ通う人々の重要な交通機関として活躍しました。

 月島の渡しは、月島工業地帯の発展、ひいては日本の近代化に寄与した渡船として語り継がれています。

平成20年3月 中央区教育委員会