2014-04-25

旧 東黒門町

旧 東黒門町

 東叡山寛永寺が創建されたことにともない、寛永三年(1626)に同寺の門前町として上の新黒門町ができた。この命名については御府内備考が『東叡山御門前に相成、元黒門町に引続町屋に御成候に付き新黒門町と唱候哉 』と述べられているのに由来する。
 上野新黒門町は、御成道(現在の中央通り)の両側に形成されていたが、明治二年(1869)、御成道を境にして東西に二分され上野西黒門町、上野東黒門町として新たに発足した。よく三年、東京府の近代都市政策のもと、下谷第三十九番組に属し、地元指導者を中心にまちづくりが始まった。そして、明治五年(1872)付近の武家屋敷を合併し、本町は形づくられた。明治四十四年に上野の二字をはずし、東黒門町となった。


神田亀住町

神田亀住町

 江戸時代のこの界隈は、武家屋敷が立ち並ぶ地域で、幕末頃には一帯が豊前小倉藩小笠原家の中屋敷となっていました。
 神田亀住町は、もともと神田川の北岸に江戸時代からあった、神田六軒町、柳原大門町、神田八軒町、上野町代地が、明治二年(1869)に合併してできた町です。その名前は、末永く生活できる場であってほしいという願いを込めて名付けられたといいます。
 このとしの十二月、現在の外神田一帯に大きな被害をもたらした火事がありました。火災後、神田亀住町は新政府により火除地(延焼をくい止めるための空き地)にされたため、よく三年(1870)、小笠原家の屋敷跡を代地として与えられ神田川北岸より移転してきました。
 明治四十四年(1911)の町名変更で、町名はいったん亀住町となります。昭和二十二年(1947)にふたたび神田亀住町に戻されますが、昭和三十九年(1964)の住居表示の実施で、神田栄町や神田元佐久間町と合併して現在の外神田五丁目になりました。
 町内にある亀住稲荷神社は、豊前小倉藩の中屋敷にあった稲荷と神田八軒町にあった稲荷を一緒に祀ったユニークな社です。町の人々はこの神社に深い愛情をいだき、稲荷のための保存講を管理・運営を続けるなど、いつの時代も大切にしてきました。







龍閑橋の歴史と由来

龍閑橋の歴史と由来

 もともと、神田の堀に架けられていた龍閑橋は、堀を埋め立てることで必要なくなりました。同じころ、この付近に開かれた新しい川に、いらなくなった橋をそのまま架けたのが、現在の龍閑橋の地名の由来となっています。まだ無名だったその新川は、橋の名前にちなんで「龍閑川」と名付けられました。今は無き龍閑川は、その昔、神田と日本橋の両区を分割するものでした。
 また、「龍閑」という名については、龍閑川の西端にあった町に、旧幕府坊主の「井上龍閑」と言う人の家があったことに由来します。






散歩 2014-04-23 上野広小路駅から室町4

散歩 2014-04-23 上野広小路駅から室町4

途中、秋葉原UDXに再生利用されている江戸時代の石垣の様子を見てきました。
http://op125d.blogspot.com/2014/04/blog-post_25.html

その他、
神田元佐久間町  http://op125d.blogspot.jp/2014/04/blog-post_5346.html

神田亀住町 http://op125d.blogspot.jp/2014/04/blog-post_6601.html

旧 東黒門町 http://op125d.blogspot.jp/2014/04/blog-post_9924.html

龍閑橋の由来 http://op125d.blogspot.jp/2014/04/blog-post_1442.html


秋葉原UDXビルの 発掘石垣の再利用

発掘石垣の再利用

秋葉原UDXの建設に先立ち、平成13年に東京都埋蔵文化財センターによる発掘が行われました。
旧神田青果市場の基礎の下からは60mに及ぶ江戸時代中期頃の石垣が姿を現し、解体調査のうえその一部を当ビルのランドスケープデザインとして再び生かすこととなりました。
ひとつひとつ丁寧にクサビ状に加工されたこれらの石は重厚なもので当時この地にあった武家屋敷の土台を支えたものであったと考えられています。
発掘された石垣の一部は、秋葉原UDXの築堤石垣と駅前広場側のモニュメントとして再利用されています。