2014-04-23

常盤小学校

東京都選定歴史的建造物 中央区立常盤小学校
http://www.chuo-tky.ed.jp/~tokiwa-es/index.cfm/1,html

所在地 中央区日本橋本石町4丁目4番26号
設計者 東京都
建築年 昭和4年 (1929)

常盤小学校は明治6年に開校し、現在使用されている建物は、関東大震災を機に、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造の校舎として建て替えられたものである。
震災復興期の小学校建築には、装飾性を加味したスタイルと、機能を重視したインターナショナル・スタイル(国際建築様式)の二つの傾向があったが、この校舎は前者の代表作である。
アーチの付いた出入口、半円形の窓とその窓台、半円形の庇なそ幾何学的な装飾が特徴で、建築様式としては表現主義と呼ばれる。
ビルが林立する中で、今なお往時の景観を残している。

Tokiwa elementary school was opened in 1873. Building that is currently being used is one in which after the Great Kanto Earthquake, it was rebuilt as a school building of reinforced concrete.

The elementary school building of the Great Kanto Earthquake reconstruction period, there was a style that takes into account the decorative, the two tendencies of international architecture with an emphasis on function. The school building is a masterpiece of the former.

Decoration the window sill doorway with arches, windows and semi-circular, such as the eaves of the semi-circular is characterized, called expressionism as architectural style.


In Tokyo that a new building is built of many, still, Tokiwa elementary school has left the landscape of bygone days.







2014-04-22

2014-04-22 朝の散歩

2014-04-22 朝の散歩

今朝は茅場町から室町4丁目まで

途中、小網神社、寶田稲荷、於竹大日如来の碑などをみて歩きました。
小網神社 http://op125d.blogspot.jp/2014/04/blog-post_22.html

寶田稲荷 http://op125d.blogspot.jp/2014/04/blog-post_4816.html

於竹大日如来の碑 http://op125d.blogspot.jp/2014/04/blog-post_8887.html


於竹大日如来

於竹大日如来縁起 (日本橋堀留町)

於竹大日如来は 寛永17年(18歳の時)山形県庄内よりでて 当時の江戸大伝馬町馬込家の召使いとなる その行いは何事にも誠実親切で 一粒の米 一きれの野菜も決して粗末にせず貧乏物に施した。 そのため於竹さんのいる勝手元からはいつも後光がさしていたという。 出羽の国の業者乗蓮と玄良坊が馬込家を訪れ「 於竹さんは羽黒山のおつげによると大日如来の化身である 」とつげた。 主人は驚き勝手仕事をやめさせ 持仏堂を造り その後念仏三昧の道に入る これが江戸市中に拡がり 於竹さんを拝もうと来る人数知れずと言う

於竹さんの詠んだ歌に

手と足は いそがしけれど波阿弥陀仏
口と心のひまにまかせて

延宝8年5月この世を去る 行年58
五代将軍綱吉公の母堂桂昌院の歌に

ありがたや 光と共に行く末は
花のうてなに於竹大日

於竹さんが愛用し貧乏者が市をなしたと言う有名な於竹井戸はこの地にあった

昭和46年5月吉祥

史蹟 於竹大日如来保存会




寶田稲荷神社

寶田稲荷神社

日本橋堀留町 最初の石碑は昭和通りの脇に建てられている。神社はその約50メートル東にある。

馬込勘解由の碑 (べったら市の由来)

徳川家康による江戸城築城のおり、寶田村が城の拡張により移転のやむなきに至った。譜代の家臣である馬込勘解由が寶田村の鎮守の御本尊を奉安して住民と共に現在地に移転した。
この大業を成し遂げた功により、勘解由は江戸の筆頭名主となり年間役料は二百十両の最高であった。のちに三伝馬取締役に出世し、徳川家繁栄を祈願された恵比壽神を授けられ、寶田神社に安置して江戸の平穏を祈願した。
御神体は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられ、以来商業の守り神として十月二十日の恵比壽講の前夜に市が開かれるようになった。
恵比壽講に使う鯛や神棚などと共に江戸名物の浅漬大根がうられ、売り子が大根に付いた糀を若い女性の着物に近づけ「ほら、べったら、べったら、買わないで通ると着物にくっ付くよ 」と戯れたことからべったら市の名がついた。
徳川家康公江戸出府四百一年を壽ぎ、ここに馬込勘解由の功績を讃え碑を建立するものである。











小網神社

日本橋小網町の小網神社

由緒
当神社は、伊勢神宮を本宗として、文正元年(1466) 今より約550年ほど前に、商売繁盛、疫病鎮静の神として鎮座した。
初めは、小網山稲荷院万福寺を別当寺とした稲荷神社であった。その後 太田道灌は、当社への崇敬篤く、時折参拝し、社地を奉じ、社殿を造営したといわれる。社名も公の命名によると伝えられる。
さて、戦時下では、当社の「強運厄除守」を奉戴した者の多くが、戦地より無事帰還したことから、都内は勿論、各地より強運厄除の御神徳を頂き、自らの運を強め、豊かで明るい生活を求める参拝者で賑わう。